愛すべき血肉 6
「千秋、おいで」
部屋に戻ると、早々に先生は布団へと、千秋を呼んだ。
行灯に灯りがつけられ、軟膏の瓶が取り出される。戦った彼女の身体の治療を、彼がしてくれようとしているのが分かった。
「平気です」
千秋は袴を脱ぎ、からげていた着物の裾を落としたが、先生の言葉には応えられそうになかった。
大きな壁を越えたばかりで、心も身体もガクガクと震えを覚えている。
こんな時に、先生に優しくされたくなかった。
もし、優しさを感じてしまったら、彼にすがってしまう、甘えてしまう。それが分かっているからこそ、千秋は春一先生に近づきたくなかったのだ。
だが、結局は同じ部屋。
もはや昨夜のように、遠く離れて一夜を過ごせるわけではない。
「おいで……千秋」
しかも、もう一度先生にそう呼ばれて、断る理由を見出せない。彼女の出来る最大の抵抗はと言えば、その場で立ち尽くすしかなかった。
「ああもう……強情だ」
先生は軟膏の瓶を置いて、そんな千秋へと近づいてくる。
拒みたいのに、それを拒めない。
矛盾する感情に激しく心を揺さぶられながら、千秋は必死で両手を動かして彼の胸に置くことで、距離を取ろうとした。
そんな手ごとき、先生に一本ずつ掴まれて、簡単に開かれてしまうだけだというのに。
「今日、千秋はまたひとつ成長したね。その代償として、柔らかい皮が一枚めくれただけ。次のその皮は、もっと強くなる」
抱き、竦められる。
温かく強い命に、千秋は包まれてしまった。
かたくなに守ろうとしたものが、あっけなく崩される。
「ああ、ああ……先生すみませんすみません。私は思ってしまいました。死んだのが馬で良かったと思ってしまいました。私はきっと、馬を好きでも何でもないんです」
ガラガラと崩れていく音を、千秋は自分の内側から聞いていた。彼の身体にしがみつき、心の中からあふれ出る懺悔を止めることが出来ない。
死んだのが、春一先生ではなく馬でよかったと、彼女は思ったのだ。
馬にとっても先生にとっても、千秋は荷だ。彼女は、同じほど速く走ることは出来ないため、馬や先生の荷になってしまう。
その荷の愚鈍さのために、今日は馬が死んだ。
素直な良い馬だった。
良い馬でさえも、死の線を越えたらどうしようもない。
千秋にとって馬の死は、先生の死に近いものとして感じたのである。
「香木族に変な動きがあるから、松露が牡丹を迎えに行くと言った。千秋が一緒だから、僕は大丈夫だと思っていたよ……何の心配もしていなかった。強いて心配をするとしたら、千秋が馬を好きになったことだろうね」
すがる彼女の身体を柔らかく抱きしめたまま、先生は千秋と食い違う言葉を連ねる。
馬を好きではないと言っているというのに、馬を好きになったことを心配したと言うのだ。
「千秋は、順序を間違わなかった。手法は満点ではなかったかもしれないけど、馬を手段として使うことにはためらわなかった……だから、千秋は生きている。いつまでも『楠』にこだわっていたなら、違う結果になったろう」
指に力を込めながら、千秋は泣かないことで一生懸命だった。泣いてわめいてその悔しさを、外に流してしまいたくなかったのだ。
でなければ、あの馬は報われない。死んだ意味さえなくなってしまう。次の馬を、また千秋が無様に殺してしまうだけだ。
だから必死に目を見開いて、目から何ひとつこぼすものかと、先生にすがる。
なのに。
「馬で……本当に良かったね」
彼女の耳元で、春一先生が残酷な一言を吐く。
決して揺るがしてはならない、優先順位の音だ。
騎馬族は馬を愛してはいるが、人の命と秤にかけることはない。どれほど可愛がろうとも、部下だと思おうとも、自分の命に勝る優先順位はない。
ここで千秋が言うべきは、もはや後悔であってはならなかった。
先生の着物の背中をきつくつかみ、千秋は強引に己の顔を引き上げた。真下から、先生を見上げる。
「次は……もっとうまくやります」
決意の、声。
未熟な己をただの荷にしないためには、更に賢く、強くならなければならない。
先生は、そんな彼女の、目じりをぺろりと舐めた。
あふれ出してはならないものを、そうしてなかったことにしてくれるのだ。
「分かっているよ、千秋」
もう片方の目じりも、舐められた。
「分かっているから、着物を脱いで……明日また、千秋は強くならなきゃならないんだろう?」
そして、先生は彼女の身体から手を離す。
強張っていると思っていた、彼の背に回していた千秋の指が、自分でも驚くほどはらりと解けた。
頑なに自分を責めていたものを、強引にではあるけれども、彼女は飲み込んだのだ。
実際に胃袋に飲み込まれたものが、千秋の身体の中で少しずつ溶け、血肉に変わっていく気がする。
そんな大事なものを、吐き出すことなく受け入れた瞬間だった。
帯を、解く。
いままで何度も見せてきた貧相な身体を、ふんどしひとつ残して、彼の前に晒す。
「打ち身、擦り傷……上手に前から落馬した跡だね。仰向けに寝て」
小さな灯りに浮かび上がる彼女の姿を上から下まで眺めて、先生は布団を顎で指す。軟膏の瓶が、再びその手に取られるのを見ながら、彼女は横たわった。
素肌の肩を、腕を膝を足を。主要な部分を、春一先生が大事なもののように確認していく。
冷ややかな夜の空気を前にしながら、千秋は先生に全てを任せた。
ひやりとした湿布が貼られると、身体がぴくりと反応してしまう。
ぬるりとした軟膏が塗られる感覚に、一度息を止める。
一通りの治療が終わった後。
「……」
そんな千秋の素肌の胸に。
先生の頭が乗せられた時は、さすがに驚いた。
「千秋の鼓動が……聞こえる。はぁ……少し、こうしていてもいいかい?」
その姿は、『先生』とは違うもののように思えた。
「少しだけ、僕を甘えさせておくれ」
ああ、と。
彼女は、少しだけ分かった気がした。
いまの春一という男は、『先生』でありたくないのだと。
千秋にとって彼は、確かに多くのことを教えてくれる素晴らしい人だ。だからと言って、人間の枠を超えているわけではない。
誰かに甘えたい時があったとしても、決しておかしくないのだ。
それどころか、自分にこんな姿を少しでも見せてくれるということは、千秋にはこの上ない喜びに思えた。
「私でよければ、いくらでもどうぞ」
そっと手を、彼の髪にかける。
こんな薄っぺらな胸で、春一先生が癒されるとは思えなかったが、自分に出来ることならば、何でもしたいと思っていた。
だから、優しく彼の髪を撫でる。
ああ。
千秋は思った。
この男の元に帰れるのであれば、きっと自分は鬼にも修羅にもなれるだろう、と。
そんな苦しくも切ない幸福を、いまの千秋はただ黙って、己の胸に抱え込むしか出来なかった。
『愛すべき血肉編 終』