表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
春と秋~大神来国の少女  作者: 霧島まるは
馬丁見習い編
66/71

愛すべき血肉 6

「千秋、おいで」


 部屋に戻ると、早々に先生は布団へと、千秋を呼んだ。


 行灯あんどんに灯りがつけられ、軟膏の瓶が取り出される。戦った彼女の身体の治療を、彼がしてくれようとしているのが分かった。


「平気です」


 千秋は袴を脱ぎ、からげていた着物の裾を落としたが、先生の言葉には応えられそうになかった。


 大きな壁を越えたばかりで、心も身体もガクガクと震えを覚えている。


 こんな時に、先生に優しくされたくなかった。


 もし、優しさを感じてしまったら、彼にすがってしまう、甘えてしまう。それが分かっているからこそ、千秋は春一先生に近づきたくなかったのだ。


 だが、結局は同じ部屋。


 もはや昨夜のように、遠く離れて一夜を過ごせるわけではない。


「おいで……千秋」


 しかも、もう一度先生にそう呼ばれて、断る理由を見出せない。彼女の出来る最大の抵抗はと言えば、その場で立ち尽くすしかなかった。


「ああもう……強情だ」


 先生は軟膏の瓶を置いて、そんな千秋へと近づいてくる。


 拒みたいのに、それを拒めない。


 矛盾する感情に激しく心を揺さぶられながら、千秋は必死で両手を動かして彼の胸に置くことで、距離を取ろうとした。


 そんな手ごとき、先生に一本ずつ掴まれて、簡単に開かれてしまうだけだというのに。


「今日、千秋はまたひとつ成長したね。その代償として、柔らかい皮が一枚めくれただけ。次のその皮は、もっと強くなる」


 抱き、竦められる。


 温かく強い命に、千秋は包まれてしまった。


 かたくなに守ろうとしたものが、あっけなく崩される。


「ああ、ああ……先生すみませんすみません。私は思ってしまいました。死んだのが馬で良かったと思ってしまいました。私はきっと、馬を好きでも何でもないんです」


 ガラガラと崩れていく音を、千秋は自分の内側から聞いていた。彼の身体にしがみつき、心の中からあふれ出る懺悔を止めることが出来ない。


 死んだのが、春一先生ではなく馬でよかったと、彼女は思ったのだ。


 馬にとっても先生にとっても、千秋は荷だ。彼女は、同じほど速く走ることは出来ないため、馬や先生の荷になってしまう。


 その荷の愚鈍さのために、今日は馬が死んだ。


 素直な良い馬だった。


 良い馬でさえも、死の線を越えたらどうしようもない。


 千秋にとって馬の死は、先生の死に近いものとして感じたのである。


「香木族に変な動きがあるから、松露が牡丹を迎えに行くと言った。千秋が一緒だから、僕は大丈夫だと思っていたよ……何の心配もしていなかった。強いて心配をするとしたら、千秋が馬を好きになったことだろうね」


 すがる彼女の身体を柔らかく抱きしめたまま、先生は千秋と食い違う言葉を連ねる。


 馬を好きではないと言っているというのに、馬を好きになったことを心配したと言うのだ。


「千秋は、順序を間違わなかった。手法は満点ではなかったかもしれないけど、馬を手段として使うことにはためらわなかった……だから、千秋は生きている。いつまでも『楠』にこだわっていたなら、違う結果になったろう」


 指に力を込めながら、千秋は泣かないことで一生懸命だった。泣いてわめいてその悔しさを、外に流してしまいたくなかったのだ。


 でなければ、あの馬は報われない。死んだ意味さえなくなってしまう。次の馬を、また千秋が無様に殺してしまうだけだ。


 だから必死に目を見開いて、目から何ひとつこぼすものかと、先生にすがる。


 なのに。


「馬で……本当に良かったね」


 彼女の耳元で、春一先生が残酷な一言を吐く。


 決して揺るがしてはならない、優先順位の音だ。


 騎馬族は馬を愛してはいるが、人の命と秤にかけることはない。どれほど可愛がろうとも、部下だと思おうとも、自分の命に勝る優先順位はない。


 ここで千秋が言うべきは、もはや後悔であってはならなかった。


 先生の着物の背中をきつくつかみ、千秋は強引に己の顔を引き上げた。真下から、先生を見上げる。


「次は……もっとうまくやります」


 決意の、声。


 未熟な己をただの荷にしないためには、更に賢く、強くならなければならない。


 先生は、そんな彼女の、目じりをぺろりと舐めた。


 あふれ出してはならないものを、そうしてなかったことにしてくれるのだ。


「分かっているよ、千秋」


 もう片方の目じりも、舐められた。


「分かっているから、着物を脱いで……明日また、千秋は強くならなきゃならないんだろう?」


 そして、先生は彼女の身体から手を離す。


 強張っていると思っていた、彼の背に回していた千秋の指が、自分でも驚くほどはらりと解けた。


 頑なに自分を責めていたものを、強引にではあるけれども、彼女は飲み込んだのだ。


 実際に胃袋に飲み込まれたものが、千秋の身体の中で少しずつ溶け、血肉に変わっていく気がする。


 そんな大事なものを、吐き出すことなく受け入れた瞬間だった。


 帯を、解く。


 いままで何度も見せてきた貧相な身体を、ふんどしひとつ残して、彼の前に晒す。


「打ち身、擦り傷……上手に前から落馬した跡だね。仰向けに寝て」


 小さな灯りに浮かび上がる彼女の姿を上から下まで眺めて、先生は布団を顎で指す。軟膏の瓶が、再びその手に取られるのを見ながら、彼女は横たわった。


 素肌の肩を、腕を膝を足を。主要な部分を、春一先生が大事なもののように確認していく。


 冷ややかな夜の空気を前にしながら、千秋は先生に全てを任せた。


 ひやりとした湿布が貼られると、身体がぴくりと反応してしまう。


 ぬるりとした軟膏が塗られる感覚に、一度息を止める。


 一通りの治療が終わった後。


「……」


 そんな千秋の素肌の胸に。


 先生の頭が乗せられた時は、さすがに驚いた。


「千秋の鼓動が……聞こえる。はぁ……少し、こうしていてもいいかい?」


 その姿は、『先生』とは違うもののように思えた。


「少しだけ、僕を甘えさせておくれ」


 ああ、と。


 彼女は、少しだけ分かった気がした。


 いまの春一という男は、『先生』でありたくないのだと。


 千秋にとって彼は、確かに多くのことを教えてくれる素晴らしい人だ。だからと言って、人間の枠を超えているわけではない。


 誰かに甘えたい時があったとしても、決しておかしくないのだ。


 それどころか、自分にこんな姿を少しでも見せてくれるということは、千秋にはこの上ない喜びに思えた。


「私でよければ、いくらでもどうぞ」


 そっと手を、彼の髪にかける。


 こんな薄っぺらな胸で、春一先生が癒されるとは思えなかったが、自分に出来ることならば、何でもしたいと思っていた。


 だから、優しく彼の髪を撫でる。


 ああ。


 千秋は思った。


 この男の元に帰れるのであれば、きっと自分は鬼にも修羅にもなれるだろう、と。


 そんな苦しくも切ない幸福を、いまの千秋はただ黙って、己の胸に抱え込むしか出来なかった。




『愛すべき血肉編 終』



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ