愛すべき血肉 3
馬の牧場は、猛烈に広い草原にあった。
柵で囲われた空の下で飼育されていて、いちいち全ての馬を厩舎に入れていないのは、その圧倒的な頭数で分かる。
おそらく、見込みのある良い馬だけ特別扱いされ、他はみなこんな感じなのだろうと、千秋は想像した。
「ああ、牡丹か!」
「おじさん、久しぶりね」
千秋が牧場の馬に目を奪われている横で、牡丹は牧場主と再会を喜んでいた。昨日とは違い、彼女は随分地味な着物に身を包んでいる。
「『松』も久しぶりだな。お疲れさん」
話は全て通っているのだろう。年配の主は、牡丹の引く老馬をぽんぽんと優しく撫でた。
「──様に嫁ぐんだってな。女冥利に尽きるじゃないか。立派な子を産めよ」
千秋の踏み込めない、騎馬族同士の気心の知れた言葉の中に、彼女は不穏なものを見つけてしまった。
いま、牧場主は一体何と言ったのかと。
「ありがとう、おじさん。ええ、そのために男兄弟ばかりの私が選ばれたんだからね……だから、最高の馬がいるの」
牡丹の口から、もう一度その人の名が出てくることはなかったが、さっき男は確かに『地史様』と言った気がする。
この国の皇帝の地位にいるという、その名。
彼女は、そんな皇帝の妻になるというのか。
驚きに、まじまじと牡丹の横顔を見つめてしまう。
「ところで、そっちの娘っこは?」
和やかな会話の後、牧場主は視線を千秋へと向けた。
「千秋です、馬丁見習いをしています」
「春一兄さんが後見をしてる、騎馬族じゃない馬丁見習いよ。私の護衛と、牧場の見学を兼ねてね」
もはや、牡丹は彼女を愛人とは呼ばなかった。納得していないのだろう。
千秋が言葉少なく挨拶で済ませようとしたのに、彼女は全てを端的に答えてしまい、結局あらいざらい相手に知られることになった。
「ああ、噂は聞いてる。こないだ馬丁がちょっとこっちに来たからな。あの、頑固なジジィが、騎馬族じゃない女に大事な馬を触らせてるって聞いて、驚いてたとこだ」
じゃあこっちこいと、牧場主は千秋に何の遠慮もなく、顎で呼ぶ。
目的地に達したということで、護衛は一時終了でいいのだろう。千秋はすぐに男の後を追う。
馬場に放されている馬のところではなく、厩舎へと連れて行かれた。
「内町じゃ繁殖はしてないからな。おい、千秋、今夜はここへつけ」
連れて行かれた先には、やはり馬がいる。
しかし、ただの馬ではなかった。おなかがパンパンに膨れた、いまにも仔馬の生まれそうな栗色の牝馬の馬房だった。
※
牝馬は、馬房を不安そうにウロウロしていた。千秋は、遠巻きにそんな彼女の様子を見ている。
初産ではないというので大丈夫だろうと言われたが、出産を目の前にして、見知らぬ千秋が近くにいると余計な不安を与えてしまうためだ。
ウロウロとしては横たわり、また起き上がってはウロウロする。それを何度も繰り返した後、ようやく牝馬は横たわった。
始まるのだと、千秋にも何となく分かった。
小さな灯りの下で、最初に見えたのは──前脚だった。
「よぉし、脚が出たぞ。もうすぐだ」
慣れ親しんだ牧場主が、彼女に声をかけながら近づいていく。
「鼻面が出てきたぞ。もう少しだ」
仔馬の前脚を掴んで、男はゆっくりと馬がいきむ瞬間に合わせて、少しずつ引き出して行く。
「そぉれ、そぉれ」
千秋は、母馬と男が、ただひたすらに新しい命をつなぐ瞬間を、瞬きも忘れてただ見ていた。
死に近い生き方をしていた彼女が、この時初めて、生の原点を見ることが出来たのだ。
「よーし、よくやった。生まれたぞ。お前によく似た栗毛だぞ」
藁で、ごしごしと仔馬の身体を拭いてやりながら、男が母馬に声をかける。
バサバサのまつげとつぶらな瞳をした、細すぎる脚の仔馬が、自力で立ち上がり、母の乳に無事吸い付くまで、千秋はじっと見つめていた。
※
「『松』のこと、よろしく頼むわね」
翌朝、早く。
牡丹は、牧場主の勧める美しい馬の中から、既に一頭をあっさりと選び抜いていた。
もっと吟味に吟味を重ねるものかと千秋は思っていたので、多少拍子抜けはするものの、生半可な馬を勧めるはずもないのだから、どれを選んでも外れということはないのだろう。
「ああ、いい種をもらうことにするよ。『松』の子は、外れが少ないからな」
「私も、早く地史様にいい種をもらわなきゃだわ。外れなんて出さないわよ」
「おう、松露の孫を次の大君にしてやれ」
馬も人も一緒くたに語る二人の会話に、千秋は加わることはない。一歩下がった場所から、ただ見て聞いているだけだ。
牡丹も、昨夜の牝馬のように、いつか新しい命を産むのだろう。何となく、そんな予想図は、彼女の頭に簡単に思い浮かんだ。
だが、それを己の身に置き換えたところで、いまひとつピンとこない。何かを生み出す側に自分が回っている姿が、想像出来ないのだ。
いま、まだ自分を育てるので精一杯であることと、いざとなったら先生のためにこの身を使うだろうということを考えると、あんなに無防備に横たわって子を産む時間があるようには思えなかった。
「帰るわよ、千秋」
「はい」
若々しい馬──『柳』に飛び乗った牡丹と共に、彼女は馬牧場を後にした。
馬丁見習いになって、千秋の生活から命の奪い合いへの緊張感は減った。
とは言って、平和ボケした訳ではない。馬上での訓練は、命の危険がすぐそこにあるのだ。
だから。
「牡丹さん」
警戒の声は、すぐに出せた。
「ん? やっぱ、そう思うわよね」
側道から来たのか、いつの間にか後方に騎馬が十騎ほど現れたのだ。ゆるやかな直線の一本道で、互いの姿を隠すものは何もない中、物凄い速度で後方から馬を駆けさせてきている。
「騎馬族じゃないようね」
まだ遠いその集団を見て、牡丹が忌々しげに唇に声を乗せた。
千秋の脳裏に、先生がむかし春側につき、秋側と戦ったことがよぎる。あの時は、皇帝の子供同士の戦いだったが。
これは、もしかしたら。
「どうせまた香木族でしょうよ……騎馬族の嫁が、とことん邪魔と見えるわ」
彼女の予想は、牡丹の言葉によって裏付けられた。
これは子供同士の戦いではなく──皇帝の妻同士の戦いなのだ、と。
「振り切るわよ、千秋」
「たとえ女相手とは言え、騎馬族相手に、騎馬戦を仕掛けて来るでしょうか?」
それは、千秋の素朴な疑問だった。
「そんなの分かるわけないでしょ」と、牡丹は彼女の疑問には乗ってこなかった。
騎馬族の良い馬と、女である軽い身が合わされば、速度の面で追いつけるとは思いづらい。
単純な早駆け勝負であっても、彼らは負けるだろう。
もし、千秋が香木族であるならば、どうにかして彼女らの馬の脚を止めたいと思うはず。
彼女は、前を向いた。
これから、道は大きく右に湾曲している。
道の周囲は林のようになっていて、見通しが悪い。
いやな、予感がする。
その予感を、どう回避すべきか、千秋には経験が足りなかった。
訓練だけでは、培うことの出来ない、騎馬戦の駆け引きを習得しきれていなかったのだ。
「飛べ!」
牡丹が叫んだ。
馬を大きく右に曲がらせようとした直後、足元の景色に異変が見えた。
綱だ。
両側の木の間に、綱が張られていたのである。
このまま突っ込めば、間違いなく馬もろとも転倒だった。しかし、左に大きく遠心力のかかった曲がりかけの状態で、千秋は馬を飛ばせたことがない。
身体を強く馬の中心に戻し、手綱を握りなおす。
「飛んでっ!」
手綱ごしの馬が、苦しげに前脚を持ち上げた。
ふわっと身体が浮き、再び地面に着地しようとした直後。
物凄い衝撃と共に、千秋は馬首を超えて前方へと放り出される。
足元に綱を引っ掛けた馬が──転倒してしまったのだ。