愛すべき血肉 2
街道を、ひたすら北に向かって二騎の馬を駆けさせる。
牡丹は、愛馬の『松』で。千秋は、馬丁に借りた『楠』だ。
彼女の愛馬は、新しい馬を見繕う旅路を最後として、引退ということになる。千秋には、それが皮肉なように思えたが、同時に幸せな仕事であるようにも思えた。
「新しい馬で、嫁入りをするのよ」
馬を休ませている時。
彼女は、何ひとつ隠す様子もなく、自分の話をし始めた。
潔い女であることは、態度や口調からよく分かった。変な搦め手で来る性質ではないようで、千秋は精神的に楽だ。
「騎馬族の娘の嫁入りだもの……最高の馬でなくちゃね」
どんな金銀財宝よりも、良い馬を。
言葉の端々から、千秋にそれが伝わってきた。
「おめでとうございます」
媚びずへつらわず、しかし、反抗するでもなく。
千秋は、騎馬族の人間に対しては、いつもその立ち位置を守っていた。そうなると、自然に言葉は静かで、抑揚の少ないものになる。
「いいわよ、適当に祝福して欲しいなんて思ってもいないんだから。千秋は、私の護衛。本当は、辛夷を連れて行きたかったんだけどね、あの馬鹿は、いま『外』におん出されてんのよ」
彼女のなめらかで凹凸のある言葉を、千秋は軽く拾い集めた。
確かに、昨日は辛夷の姿を見ていない。静かになって良かったとは思っていたが、外に出されていたとは知らなかったのだ。
「その顔は、知らなかったんだ……呑気なものね」
言葉の最後に、チクリと刺さる棘が見え隠れ。まるで、千秋のせいと言わんばかりだ。
「あの馬鹿、春一兄さんに正式に決闘申し込んで、ボッコボコにされたのよ。そんな恥ずかしい状態で、あの屋敷にいられるワケないから、父さんにしばらく頭冷やせと外に出されたの」
そして本当に、見事に千秋のせいだった。
彼女は、愕然とした。
先生に、決闘を挑んだ辛夷に驚いたのではない。
そのことに気づかなかった自分と、気づかせなかった先生の力量の差に、愕然としたのである。
「春一先生は……怪我はないんですか?」
こんなことを、他の人に聞かねばならないのは、千秋にとって限りなく屈辱だった。
「あー、何発かは入ってたみたいね、私も見てたけど。打撲と、肋骨ちょっといってるくらいかな」
牡丹の言葉に、彼女はひたすらに打ちのめされた。
昨夜の先生を思い出しても、そんな素振りひとつ見せていなかったのだ。勿論、千秋に気づかれないように、彼がそう振舞ったのだろう。
近づくようで、先生はやはり遠い。
千秋は、それを悔しさと共に噛み締めた。
「ほんっとに、春一兄さんのことが好きなのね……愛人なんて何の冗談かと思ってたけど」
隠しきれなかった表情を、牡丹に見透かされる。
やはり、自分には心の強さが足りないと痛感するのだ。先生以外の前で、心を揺らされれば、それが死に直結する可能性もあるだろうに。
「冗談、ですか?」
本物の愛人関係には、やはり見えないのだろうか。
演技という点で言えば、確かに千秋は落第に違いない。愛人らしい態度を、人前で取ったことはないのだから。
どうすれば愛人らしいのか、彼女にはよく分からない。
「そ、冗談。春一兄さん、千秋を馬丁見習いにするために、父さんに頭下げたんでしょ、しかもみんなのいるとこで」
さっきから、牡丹は彼女の痛い部分ばかりを抉ってくる。
千秋では得られない情報経路により、見ていることと見ていないことの両方に精通しているのだ。
「普通、愛人を馬丁見習いにさせる? ありえない! そのために頭下げる? ありえない! だから冗談だと思ったのよ」
ギラリと、牡丹の目が閃く。
そして、こう言った。
「『愛人』なら、愛してさえいればいいのよ。それだけあれば、『愛人』なんだから。でも千秋、あんたは違うでしょ? 生娘みたいな顔をして春一兄さんをたぶらかして、何をしようと思ってるの?」
ずいと長身の彼女が、千秋の方へと足を踏み出す。さすがは松露の娘だ。迫力だけは、女とは思えない。
しかし、その問いは、トンチンカンとしか言いようがなかった。
千秋に、特定の目的があるわけではない。
あえてあるとするならば、先生の見ている向こう側を見ること。
だがそれは。まだ遠すぎて漠然としたものでしかない。
それを、ただ単純に言葉にするならば。
「私は、春一先生を守れるようになりたいだけです」
これ以外の、何者でもない。
心ばかりが先行するが、実力がなければ彼を守ることなんか出来はしない。先生に頼られるようになるなんて、今はまだ夢のまた夢なのだ。
「春一兄さんを……守る?」
さっきまでの迫力は、一体どこへいったのだろうか。
牡丹は、ぽかぁんと口を開けて、素直に驚きを表情として浮かべた。
「春一兄さんを守る、ですって? あんたが? 女のあんたが!?」
大きな瞳をなおさら見開き、信じられないことを聞いた声で、ただそれを繰り返す。
「……」
千秋は、もはや答えなかった。
誰かに、この気持ちを理解してもらう必要はないのだ。
ただ、彼女の中に、ちゃんとした芯としてあればいい。それは、千秋が進む方向を決める指標となり、迷うことはないのだから。
「は……はは。春一兄さんは、自分の盾を育ててるって訳? いや、兄さんがそんなもの欲しがるなんて思えない。あの人こそ、地史様の無敵の盾だったんだから」
牡丹の整理されていない言葉が、次々とこぼれ落ちるのを、千秋は聞いていた。
そして、最後の部分で表情を曇らせた。
無敵の盾?
千秋の記憶に、『あれ』が甦る。
先生は強い。それは間違いない。
だが、彼が本当に無敵であるというのならば──あの無数の背中の傷は、何だったというのか。
千秋は、その傷を負った場面まで、時を駆け戻りたかった。
そうであれば、彼女は先生の背中の傷を、ただのひとつもつけさせないため、この身を張ることが出来ただろうに、と。
しかし、それはもはや過去の話。
千秋が見ているのは、未来の話だ。
もし、次にまた同じことが起きた時のために、彼女はいま、ひたすらに馬丁見習いの仕事に打ち込んでいるのだから。
「あんたが、大馬鹿なことだけは分かったわ」
牡丹が最後に言ったそれは。
千秋にとっては、褒め言葉に過ぎなかった。