愛すべき血肉 1
「あなたが千秋?」
千秋が彼女と出会ったのは、暖かな春の昼間の馬場だった。
馬たちがのどかに歩く中、数人の馬丁により、一頭一頭状態に応じて、裸馬のまま軽く駆けさせられている。
千秋も、自分の担当している栗毛の馬の手綱を引いていた。
そんな彼女に、馬場の柵の上から声がかけられたのだ。
大柄な女性だった。派手な柄の着物は艶やかだが、ふくらんだ袴をはいて、ゆらりともせず柵の細い柱の上に立っている。
目鼻立ちはくっきりとしていて、つった眉とまつげの多い垂れた目じりには色香が漂っていた。黒い髪をおろせば、さぞや華やかだろうと思うが、頭の高い位置で一糸乱れぬまとめようであった。
千秋は、彼女が騎馬族であるということを疑わなかった。
袴もそうであったし、不安定な足場でもゆらりともしないのは、揺れる馬上に慣れているからだろうと簡単に想像出来たのだ。
そして、もうひとつ。
この人が誰かに似ている──それに気づいていた。
「はい、私が千秋です」
馬の足を止め、彼女は高い位置にある彼女を見上げる。
いまの千秋は、騎馬族の仕事をしている身だ。必要以上にへりくだることはないが、最低限の礼儀は守っていた。
「ふぅん……」
騎馬族の人間というものは、最初に上から下まで眺めて値踏みをするのが基本なのだろうか。会う人会う人、複雑な思惑の絡む目で、千秋にそういう視線を向けてくる。
もはや慣れているので、千秋は黙って値踏みの視線を受けた。
「何か御用ですか? でなければ、仕事がありますので……」
「あるある。その仕事の話」
悠長な世間話をしている時間はなく、彼女は引き続き馬丁見習いの仕事を続けようかと思った。しかし、すぐさま引き止められる。
「多少は、馬を扱えるんでしょ? 明日、私の用事についてきて」
馬丁に話はつけてあるわ。
そう言うなり、女性は自分の唇に指を突っ込んだ。ヒュイっと独特の指笛が空気を裂くと、馬場で遊んでいた一頭の馬が駆け寄ってくる。
ぶるるぶるるといななき、柵の上に立つ彼女に鼻先を押し付けようとしている。
千秋の担当の厩舎でも、二番目くらいに老いた馬である。
「ふふ、久しぶりね、『松』や。乗せてくれる?」
ひらあり。
柵の上の大きな身体が、空を舞ったかと思うと、次の瞬間にはすとんと馬の背に着座していた。
鞍もないその背に、ぴたりと収まる大き目の女の尻。
「私の名前は、牡丹。万人隊長、松露の娘よ」
馬上から千秋を見下ろし、不敵に微笑んだ彼女は──予想通りの身分だった。
服装の趣味や眉と目は、どう見ても辛夷と、他人であるとは思えなかったのだ。
辛夷は末っ子だというので、彼女はその姉、というところだろうか。
「千秋です。よろしくお願いします」
馬丁の許可が出ているというのならば、千秋が牡丹の仕事を断る理由はない。彼女は、素直にそれを引き受けることにしたのだった。
※
「明日から、牡丹さんと出かけることになりました」
一日の仕事を終え、夕食も終えた千秋は部屋へと戻る。
部屋の主である春一は、既にそこにいて、行灯の小さな灯りの中、布団の上に横たわっていた。
「ん? 牡丹? ああ、新しい馬を選びに行くのか」
話は、春一にはいっていなかったようだ。しかし、怪訝な声はすぐに理解の音へと変わる。
「はい、外に馬の牧場があるそうで、そこまでの供を言い付かりました」
牡丹の愛馬『松』は、年齢的に引退の時期らしい。そこで、牡丹に合う新しい馬を見繕いに行くというのだ。
牧場まで、片道約1日。
朝早く出て、夕方に到着して馬を選ぶ。その晩は牧場に泊まって、翌日の朝早く、内町への帰路につくという一泊二日の旅程になる予定だった。
「そうか……新しい馬か」
先生の声が感慨深げなものに聞こえるのは、千秋が馬と共に生活をするようになって、騎馬族にとっての馬というものが、かけがえのないものであると分かるようになったからだろう。
「千秋も、馬はいるかい?」
先生の寝転んだままの視線が、千秋へと向けられる。
彼を見下ろしているのは変な気分で、彼女はその側に座ることにした。
そして答えた。
「必要ありません」
にこり。
「この袴で十分です」
彼女は自分の足を覆うそれを、軽く引っ張って見せた。
先生に与えてもらうもので、一番好きなものが技術。その次が、服。
千秋の中で、その順位は不動だった。
どちらも、彼女は身に着けてどこへでも行けるからだ。
馬丁見習いになった時、彼女は春一先生に袴を贈られた。内股の部分に皮の張ってある、丈夫な乗馬用。
服はいいが、馬は違う。
ずっと馬と共に移動していくことは、千秋には出来ない。旅の生活では、満足な馬の手入れも出来るか分からないからだ。
それに、彼女はこの町に定住するつもりはない。
先生の自由を取り戻し、再び外へ出て行くつもりだった。だからこそ、馬は必要ないのだ。
そんな気持ちを、千秋は言葉に込めた。
「馬は……好きかい?」
先生は、質問を変えた。
細い目から表情は分からないが、口元に微かな笑みが浮かんでいる。
「はい、大好きです」
千秋は、同じほど目を細めて笑った。