【枠外短編】愛人ごっこ
千秋は、馬丁見習いとして猛烈な勢いで成長していった。
無駄口ひとつ叩くことなく、馬丁の雑談ひとつ聞き逃さないようについて回る。
馬房の掃除をしながら、一頭一頭の個性と名と年を覚え、馬場で運動をさせつつ、千秋自身も乗り手としての訓練を重ねた。
ゆっくりしている暇は、彼女にはない。
いま彼女が、ここで見習いの仕事が出来るのは、全て春一先生の口ぞえがあったからこそ、だ。
その重すぎる借りを、彼女は1秒も無駄にすることなく技能を身に着けることで返さなければならないのである。
年若い馬丁見習いの男の子たちに、軽乗を習う。
勿論、それは無料ではなく、千秋の懐から小銭を出して教師として頼んでいるのだ。
軽乗──馬上で、本来ならばありえない軽技的な乗り方をすることである。
倒立、逆乗り、馬上での縦回転、横回転、馬腹、鐙まで使いこなし、千秋は馬上であれば、どこでどんな体勢であろうと乗りこなす訓練をした。
『千秋は身が軽いから、子供の乗り方が一生出来るよ』
先生の一言が、彼女を軽乗と早駆けに特化させたのだ。
身が軽いということは、それだけ馬の負担が少ない。その長所を伸ばすことに、とにかく専念したのである。
軽乗の訓練は、アザとの戦いだ。
うっかり落馬しようものなら、いくら受身を取ったところで、無傷では済まされない。
したたかに身体を打ちつけ、頭がぐらぐらと揺れたこともあった。
見習いの男の子たちに、ゲラゲラと笑われながらも、千秋はただひたすらに技能の向上のみに、その鼻先を向けて驀進し続けるのだ。
「あーあ……頑張っちゃって」
よろよろする身体を、いかにしゃきっとして部屋に戻ろうとも、先生にはすぐにバレてしまう。
たとえ見えないところにアザがあろうとも、先生にもらった乗馬用の袴を脱いだところを捕まえられて、着物までひんむかれるのだ。
腰巻は乗馬には向かないため、いまの彼女はふんどし姿である。
そんな恥ずかしい姿で布団にすっ転がされて、先生に膏薬や湿布を貼ってもらうというのは、女性にあるまじき状態だ。
いつまでたっても、春一の前での彼女は子供のようなものだった。
こんなしょんぼりした状態の千秋が、先生の愛人扱いというから、本人にしてみれば苦笑いしか出ない。
年齢と性別と、彼が千秋の後見であることと、同じ部屋での寝泊りの事実を並べれば、それ以外の答えは普通は出ない。
『その方が都合がいい』という理由で、先生も否定をしない。
騎馬族の男たちときたら、千秋をとにかく女として扱う。正確には、女としてもぎ取ろうとする。
そこらの木に実っている果実と、大差ない扱いなのだ。
それほど簡単な所作で、彼らは千秋にかじりつこうとするのである。
しかし、それはすぐに収まった。
千秋が命がけで抵抗している間に、先生がやってきて『順序が違うだろう?』と、男たちを引っ立てて行ってくれたおかげだ。
ここでも千秋は、彼に守られている。
手間をかけさせて本当に悪いと思うのであれば、一日でも早く騎馬族の誰にも文句を言わせない馬丁にならなければいけない。
そうすれば、晴れて先生をここから解放し、彼女もまた出て行くことが出来るのだから。
心の中で、春一にすみませんと詫びつつ、千秋は前を向くのだ。
そんな粗暴な男たちの襲来がひと段落したら、彼女に残されるのは、先生と馬のことと──辛夷だけとなった。
この屋敷を仕切る松露の末息子で、彼女に馬の乗り方を最初に教えた男でもある。
辛夷は、千秋に無理な接触はしてこなかった。
だが、しつこい。じっくりと腰を据えて、自分に向かい合っているのが分かる。
いっそ何かしてくるのならば、殴り合いも殺し合いもする覚悟はあるが、そうでないから性質が悪い。
彼の視線を無視し、最低限の挨拶だけで交わし続け、馬のことを教えてやるという好意を無にし続けた。
どれほど、ひどい女だと思われても良かった。
その方が、千秋にとっては明らかに気が楽だったからだ。
「お手数かけます」
今日も今日とてボロボロの千秋は、ふんどし一つで先生の手で身体を整えられる。
膏薬を塗り終わった後、彼がその背に着物をかけてくれるまで、その身の全てを預けるのだ。
本当の愛人であれば、どれほど気が楽だったろうか。
少なくとも、先生を慰めるという形で、恩を返すことも出来るのだ。
だが、そんなものを彼は求めてはいない。
この身体に、春一先生は一度も欲情したことなどないのだから。
「さあ、寝ようか」
軽く着物を着込んだ千秋に、先生が声をかけてくれる。
毎夜毎夜、彼に抱きこまれて眠る幸福と地獄。
千秋の中で、日々育っていく女の部分が、それを同時に味わい続けるのを、春一は知らない。
そんな感情を振り切って、千秋は明日も夜明け前に起き出して、馬と向かい合うのだった。
『枠外短編 終』