千の秋 5
夕方の冷たい山川の水で、身を清める。
泥や埃と共に、俗世の全てを洗い流すように。
食生活の改善のおかげで、少しだけふくらんだように思える胸を、千秋は皮肉に見下ろした。
綺麗になった身体を、糸目先生にもらった着物で包む。
髪を結いあげ、山の赤い実のついた枝をかんざしにして差して止める。
新しい草鞋は、自分で作ったもの。
長い枯れ草を、よってこしらえている時、心は静かだった。
怒りとか憎しみとか、確かにあったはずなのだ。
薄れてなくなったわけではない。
だが、それは違うものに姿を変えて、自分の心の奥底に座っている気がする。
草鞋をはいて、千秋は小屋へと戻った。
ちょうど夕餉の仕度をしていた先生が、「おかえ…」と言いかけて言葉を止める。
いつも小汚い姿ばかり見せていたので、きっと驚いたのだろう。
馬子にも衣装と言うところか。
「……」
静かな静かな夕食になった。
だが、寂しい夕食じゃない。
千秋は、目の前に座る先生の顔を時々見ながら、笑みを向けられると、自然に笑みで返していた。
まるで。
この一瞬だけは、何十年も連れ添った夫婦のよう。
糸目先生は、そんなことを言われても困るだろうが、彼女にとってはそれがたとえ疑似的なものであったとしても、必要なものに思えたのだ。
あるはずだった、誰かとの未来。
それを、ささやかに千秋は体験することが出来たのだから。
食事と片付けが終わって、改めて彼女は囲炉裏の前で先生に向き直った。
きちんと正座をし、そして両の指先を板張りの床につく。
「これまで、どうもありがとうございました。命を救って頂いたこと、教えていただいたこと……感謝は言葉に尽くせません」
いまこうして、静かな気持ちでいられるのもまた、先生のおかげだ。
彼は、憎しみの戦いは教えなかった。
いつも冗談混じりの性的ないやがらせをしながら、千秋の肩を抜いてくれた。
おかげで、短い間だったが、生き延びたことを後悔せずに済んだ。
無為に槍に飛び込んで死ぬような、後ろ向きな死ではなく、自分のまっすぐな心のまま正々堂々とぶつかっていく、前向きな死の道を選ぶことが出来た。
全て、この炭焼きの男のおかげである。
彼が何者であろうとも、この感謝の心は変わりはしない。
「……」
真剣な気持ちが、伝わったのだろうか。
頭を下げているので表情は分からないが、先生は何も言わないでいてくれる。
「私に何か出来ることがあれば、恩返しがしたいのですが……」
とくんと、自分の胸が跳ねる。
心のどこかで、奇妙な覚悟があった。
ここでもし、彼が自分を女として求めるようなことがあれば、それを受け入れようと。
いや。
心のどこかで、それを願っていたのだ。
この人にならば、最初で最後の女の身の自分を、捧げても構わないのではないかと。
静かな静かな時間が流れる。
パチと囲炉裏の炭がはぜ、小屋の外をわずかな風が吹き抜け、戸をカタカタと揺らす音が、とても大きく聞こえるほど。
「存分に……ぶっとばしておいで。それが、僕の願いでもあるよ」
糸目先生は、最後まで素晴らしい人だった。
俗っぽい女の身よりも、彼女がやろうとしていることの応援をしてくれるのだ。
分かっていたことだった。
千秋は、ゆっくりと顔を上げて彼を見た。
糸目でよく表情が分からないながらに、やさしく微笑んでくれている気がする。
「はい、ぶっとばしてきます」
さようなら、先生。
さようなら。
千秋は、夜も明ける前に起き出して、最後にもう一度布団に横たわる糸目先生に深く三つ指をつくと、そっと小屋を出たのだった。