春から秋へ 3
千秋は──痛いほどに千秋のままだった。
それは、成長していないということではない。
世間の厳しさを全身で擦り切れるほど知っているというのに、内側に熱く美しい炎の塊を持っている。
「馬を扱う仕事……私でも出来る仕事、ありませんか?」
それは、「馬をもっと、扱ってみる?」という春一の言葉に対する返答だった。
命をつなぐ手段としての『生きる』という行為に対して、痛いほど貪欲なのだ。
生かされることが、どれほど時間の無駄なことであるか、千秋は骨の髄から知っている。
それは、誰からも征服されない人間を目指すことだ。
彼女が働くのは、手段に過ぎない。
生きるための手段であり、今回の場合は、馬の技術を手に入れるための手段である。
そのために、誰かに頭を下げる必要があったとしても、それは征服されたことではない。
千秋が日々の自分と、自分の時間を征服している限り、誰も彼女の地位を貶めることなど出来ないのだから。
春一は、己の見る目が確かであった事を、こんな瞬間に何度も噛み締めさせられる。
征服されない人間。
彼女の目指す先にあるものは──皇帝というものの地位と何が違うのか。
まだだよ。
心の中でうねる感情に、春一は手綱をかける。
彼女の命は、自分のものだ。
心も揺らぐことなく、自分に向いている。
たとえ今、春一が千秋の身体を手に入れたとしても、千秋は絶対に抵抗せずに受け入れるだろう。
しかし、まだなのだ。
彼は、千秋の位置まで降りてはならない。
駆け上がろうとしている彼女の足を、鈍らせてはならない。
外見的な意味ではなく、彼女はもっと美しくなると確信している。
磨けば磨くほど、春一の心を激しく揺さぶる女皇帝に近づいて行くのだ。
ふと目を離した瞬間に、彼よりも高みに駆け上がるかもしれない。
その時は、彼が千秋のつま先に唇を寄せて、愛を乞わねばならないだろう。
それ以上高みに行ってしまわないように、強く抱きとめなければならないかもしれない。
もし、そんな日がきたら──自分がどうなってしまうのか、春一には想像さえ出来ないのだ。
想像さえ出来ない世界を、彼は待ちわびているのだ。
心にかかる手綱を引きちぎり、自分がただの雄になる日を。
そんな女の成長のためならば。
万人隊長の松露に頭を下げることなんて。
何でもなかった。
※
騎馬族の人間にとって、『馬』というものは特別なものだ。
速く遠くに移動するための足であり、第一の部下であり、剣であり盾である。
生ける道具である馬を、余すところ無く使いこなして初めて、騎馬族の男は一人前と認められる。
そのため騎馬族の人間は必ず、子供の頃から馬の世話をして育ち、馬という道具の全てをそこで学ぶのだ。
自分や自分の家族の馬を、騎馬族以外に預けてもいいなんて人間は、誰ひとりいないだろう。
だからこそ、千秋を馬丁見習いとして松露に雇わせるために、春一は頭を下げなければならなかった。
そして同時に、広間にいる主要な人間たちに、千秋という少女と自分の関係を強く焼き付ける必要があった。
彼女が、春一の庇護下にあることを知らしめておかねばならなかったのだ。
騎馬族の男たちは、女も戦利品のひとつなのである。
松露のすぐ下にいる男たちは実力者揃いであり、どんな女も本気で望めば手に入ると思っているはず。
そんな男たちの中に、千秋という小娘を放り込むのだ。
だからこそ、彼女に手を出したければ、まず春一という障害を取り除かなければ無理なのだと、最初にたたきつけておく必要があった。
それにより、軽い気持ちで千秋を好きにしようなんて馬鹿は出なくなる。
春一が、人前で頭を下げるほどの女。
こうすることで、彼は千秋を別格の枠の中に押し込めたのだ。
その枠の中に入れられたことも知らない娘は、血の気のうせた真っ青な顔でぶるぶると身を震わせている。
春一に頭を下げさせたことは、彼女から言葉を失わせるほどの衝撃を与えたようだった。
ありゃりゃ。
彼を上に捧げ持とうとする千秋の性格を考えれば、当然の反応だろうが、それは春一にとってはやはり心外なことで。
その距離感を埋めるには、まだ時間が必要なのだと彼を苦笑させた。
「よしよし」
借りている部屋へと千秋の手を引いて連れて行き、真っ暗な中で彼女を宥める。
そんな彼に甘えることを良しとしない彼女は、弱い力で押しのけてくる。
やれやれ。
どんな形であれ、拒絶されることは春一にとって心地よいことではないというのに。
彼の心など知らない千秋は、闇の中にひざまずき手をついた。
つまらない詫びが飛び出すのかと思いきや──千秋の気配が変わる。
何かを強く決心した、誰にも真似できない独特の魂の燃え上がる様を、春一は見る羽目になる。
こんなことで。
明らかに、彼のために何かを決意した千秋の様子に、逆に春一は脱力してしまった。
彼女は馬のことを学ぶために馬丁見習いになるのではなく、『命がけ』で見事な馬丁になることを決意したに違いない。
「千秋……また変なこと、考えてるでしょ」
決意の無駄遣いというか、命の無駄遣いというか。
そんなものを、こんなところで抜刀する必要などないというのに。彼女は己の力の使いどころをまだ理解しきっていないようだ。
この勢いで馬と向き合えば、きっと千秋はすぐに馬を手段として使いこなせるだろう。
それにもし、馬への愛が加味されたならば。
「いまの千秋が、馬を愛せるようになったら……ここだとちょっと危険なことになりそうだね。馬馬鹿だらけだから」
騎馬族の男たちが、きっと千秋を放っておかなくなる。
同じ騎馬族だからこそ、春一にはそれが容易に想像出来た。
千秋との間ならば、どれほど素晴らしい騎馬族の子孫が残せるだろうと、多くの男たちが考えるに違いない。
そうなれば、春一に挑戦してくる男たちも現れることとなる。
腕に覚えのある連中を、彼はぶっ飛ばし続けなければならないというわけだ。
「だっ、大丈夫です……危険なことは、自分が何とかします。死なない限り、戦えます」
近い未来に起きそうな状況を、いまの千秋が知るよしもない。
見当はずれな解答を、彼女なりの必死さで伝えてこようとしている。
「まあ、だいぶズレてるけど、言いたいことは分かったよ。出来れば、五体満足で生き延びてね……でないと」
もし、本当に彼女の言葉通りなら、千秋を手に入れようとする男たちを、ばったばったとその細い腕でなぎ倒さなければならない。
春一でさえ、てこずるかもしれない相手を、だ。
それは、彼にとって余り微笑ましい未来につながってはいなかった。
骨の二、三本ですめば御の字。最悪の場合は、さすがの千秋でも命を落とすかもしれない。
もし、そんなことになれば。
春一は。
暗い暗い、己の奥底の箱のふたが浮き上がりそうになる。
何もかもを引きちぎり切り裂いて、血と反吐の海の上に立ちたくなったのだ。
最低最悪の赤黒い世界の妄想を抱いた春一の前で──千秋が、笑った。
幸せそうに、彼女が笑ったのだ。
それを見たら、箱のふたは何事もなかったかのように、元通りきっちりと閉ざされる。
血と反吐の海の妄想は、部屋と同じただの闇の中に霧散していった。
「こんな僕を前にして、笑えるのは……千秋ぐらいだろうねぇ」
肩の力が、しゅるんと抜け落ちて、春一は笑ってしまった。
一番『悪い』ものが見え隠れした瞬間さえ、それは千秋にとって恐れる対象でさえないのだ。
もはや春一では、彼女を怯えさせることは不可能なのかもしれない。
それだけでもう、千秋が自分より下にいるとは思えなかった。
そして。
「騎馬族に負けないくらい、馬を扱えるようになります」
彼女は、騎馬族をぶっ倒します、と言外に言う。
騎馬族以外の人間に馬で負けることほど、彼らににとっての恥はない。
それをやってのけると言うのだ。
頼もしくも心震える決意の無駄遣い。
そんなものを春一は望んではいないが、彼女が行きたいというのであれば、駆け上がる様を見守っていよう。
彼はただ、千秋を奪おうと殴りかかってくる不届き者を、ぶっ飛ばす準備をしていればいいのだ。
それが、春一のたどりついた一番単純な結論だった。
「さて。久しぶりに、一緒に寝ようか」
布団は一組しか、この部屋には無い。
長らく離れていた千秋を、まだ春一は堪能しきっていなかった。
「はい、お邪魔します」
彼女の返事には、迷いがない。
千秋もまた、彼との再会を喜んでいて、側にいたいと思ってくれているのは分かる。
しかし、それはまだ父にすがる娘と何ら大差の無い無邪気さに感じた。
そんな態度を見せられると、春一も男として微妙な気持ちになってしまうではないか。
ふとした瞬間ごとに、千秋と春一の距離の縮尺は変わってしまう。
それは、彼女がまだ大人になりきっていない、揺らぎの部分にいるからなのだろう。
時折、その揺らぎが憎らしくなる。
「いつまでも子供のようにはいかないからね」
自分が、彼女を『女』として見ていることだけは、その肌に伝えておきたかった。
しかし、その返事ときたら。
「分かってます! 頑張ります!」
色気もへったくれもない、元気のいいもので。
技術や生きる術を学ぶ時の、千秋のひたむきさと鋭さは、人間同士の心の機微には向けられていないのを思い知らされる。
「分かったふりだけはうまいからなぁ」
その噛み合わなさをぼやきながらも、春一は彼女を抱え込んで眠ることの出来る幸福を、存分に全身で味わったのだった。
『春から秋へ編 終』