春から秋へ 2
千秋が、来た。
先触れの辛夷が現れてから、たった一日。
更に、その辛夷が彼女を連れてきた──いや、千秋につきまとってきたようにしか見えなかった。
馬を突っ返され冷たくあしらわれる様に、「あーあ」と春一は唇の中で呟く。
彼は、今日も商店の屋根の上。
日当たりが良くて最高の環境で、そんな二人の様を見ていた。
春一の予感が当たっているのを、その光景の中で見出したのだ。
辛夷の目は、千秋を『獲物』として狙っている。
騎馬族の男にとっては、女も獲物の中のひとつだ。
金も名誉も、強い子孫を作ることの出来る良い女も、強い男でなければ手に入れることは出来ない。
千秋は、その強い男予備軍である辛夷のおめがねにかなってしまったというワケだ。
昨日の彼の様子から、春一にその予感はあったものの、こうして目の当たりにすると確信に変わった。
同時に、辛夷にとっての『悪い予感』も当たったことになる。
何故なら。
「素通りかい?」
辛夷を袖にして一人で歩き始めた千秋が、彼の下を通り過ぎた時、ようやくにして春一は声をかけた。
その瞬間、彼女は幻聴でも聞いたかのように驚いて振り返る。
瞳が虚空をさまよった後、空に向かって顎を上げる。
空よりも近くにいる春一に、目の焦点を合わせた千秋の表情が、一瞬だけ驚きに包まれた直後。
ピシッ!!
紙の角をきっちりと合わせて折るかのごとき正しさで、千秋は彼に向かって最大限の辞儀をかましたのだ。
「春一先生、遅くなりました」
その時の春一の気持ちなど、彼女はきっと分かりっこない。
屋根の上から、ずり落ちてしまうほど脱力したのだ。
ああそうだ、これが千秋だよね、と。
見たかったのは──笑み。
全てを許しきっている、春一だけにしか見せない最上の笑み。
素晴らしい成長と同じほど、彼はそれを千秋に望んでいたのだ。
「うん、分かったから顔を上げて」
しかし、それは遠くない内に手に入れることは出来るだろう。
そう確信していた春一は、望みのひとつを後に回すことにして、自分の欲を果たそうとした。
悠長に階段に回る気もなく屋根から飛び降りるや、彼は千秋の身体を抱きこんだのだ。
彼女の身体の温度と形を、抱きしめながら記憶と照合する。
「うわあ、ひどい身体だね」
酷使の限りを尽くしてきた彼女の身体の声を、春一の腕が拾い上げる。
本当に、自分の身体を虐めるのを厭わない娘なのだと、全身で思い出す。
「はい、一人で馬に乗れるようになりました」
しかし、彼女の旅の苦労を想像するよりも先に、千秋の言ったその言葉が、春一を笑みにした。
彼女への悦なる気持ちと、辛夷への乾いた気持ちだ。
『一人で』と、いま千秋は言った。
その過程に、本当は辛夷という馬に卓越した男が噛んでいるはずだというのに、千秋はばっさりと切り落として言葉にしたのである。
たとえ彼から馬に乗る方法を習っていたとしても、そこにあるのは取引以上のものではないのだと、残酷に宣告されているのだ。
これが、辛夷が昨日感じた『悪い予感』のひとつである。
たとえ彼が、どれほどの愛を千秋に囁こうとも、そんなものでは彼女の心が動くことはありえない。
その時点で、辛夷は決して千秋を手に入れることは出来ないのだ。
「そう、じゃあほぐしてあげるよ、おいで」
そして。
辛夷の悪い予感のもうひとつは、春一という男そのものだった。
千秋と共に商店の中に入りながら、春一は背中に強い視線を感じていた。
二頭の馬の手綱を握ったまま、彼らを見ているだろう辛夷の視線だ。
もし、彼が実力で千秋を自分のものにしたければ、春一を倒さねばならない。
何故なら、彼女の命は春一のものなのだから。
それこそが、実力主義の騎馬族の掟だった。
僕と殺し合いをする覚悟があるなら、挑んでおいで。
そんな言葉を、春一は後方の男に背中で伝えたのだった。