春から秋へ 1
西七理の町に、千秋が到来したことを告げたのは、少女本人ではなかった。
「春一さん!」
大通り沿いの商店の屋根の上にいた春一は、ゆっくりと止まる馬の足音と共に名を呼ばれた。
「ああ、辛夷か」
手入れの行き届いた素晴らしい栗毛の馬上、派手な着物に身を包んだ辛夷という青年は、この町では出世頭の一人だ。
西方に睨みを利かせる万人隊長の末息子でもあるし、本人自身の馬術の腕も卓越している。
純粋に馬術だけで言えば、春一よりも上かもしれない。
将来的には、千人隊長くらいにはなれるだろう。
そこから上にいけるかどうかは、本人の成長による。
隊長職は、世襲制ではない。
いくら末子相続の騎馬族であったとしても、そういう重大な役職は、すべて合議制で決められる。
十人の隊を率いる隊長が、十人集まれば百人の隊の話が出来る。
その十人隊長が話し合いをして、誰を百人隊長にするか決めるのだ。
一番力があり、そいつについていけば負けにくく死ににくく、なおかつケチではなく、十分にいい思いをさせてもらえる人間が、百人隊長として選ばれる。
同様に、今度は百人隊長十人が合議して、千人隊長を決め、更にその上が万人隊長となる。
褒美の配分は、今度は上からだ。
万人隊長が、まず自分の取り分を決め、残りを他の千人隊長に配分する。
千人隊長は、自分の取り分を取り、百人隊長に配る──十進法というものを利用して、のぼりにもくだりにも、シンプルかつ分かりやすい軍隊を構成出来るのだ。
最近は大きな戦もなく、まだ辛夷には肩書きがないが、十人の隊を組むための人脈は作っているし、それで十分だった。
そんな万人隊長の息子は、「あー」と一度歯切れの悪い声を吐きながら、屋根の上の春一を見上げる。
上がった眉のおかげで、下がった目じりの柔らかさを帳消しにしている辛夷の性格からすれば、違和感のある反応だった。
しかし、その理由は次の彼の言葉で分かった。
「春一さん……弟子、います?」
次の瞬間。
屋根の上の糸目は、更に上の天を仰いで笑い出した。
おかしくてたまらなかったのだ。
来たか、と。
ついに、再会を待ち望んだ相手が、その気配をあらわしたのである。
「ははははは、弟子はいないよ」
辛夷は、彼女から何をどう聞いたのだろうか。
それに興味を抱きながらも、彼は笑いながら言葉を訂正する。
「あ、そうなんですか……『先生』なんて呼んでいたから、てっきり弟子かと」
馬上の彼は、唇を歪めながら考え込む仕草をした。
ふぅんと、春一はそんな姿の向こうに千秋の影を見る。
彼女が、必要以上の情報を辛夷に与えていないということが、言葉から伝わってくるのだ。
なのに、辛夷から不快な感情を抱かれていない。
「殴り合いでもしたかい?」
辛夷は、実力主義という言葉をよく分かっている。
たとえ相手が小娘だろうとも、その力を認めるところがあったならば、一目置くのをためらうことはないだろう。
だから、きっと千秋とぶつかり合ったのだと、春一は思った。
「まあ、似たようなもんです。けど……あんなケンカの仕方を、何で女に教えたんです?」
辛夷は、複雑に顔をひん曲げた。
見たところ、彼が怪我をした様子はない。
一方的に辛夷が負けたとは考えにくいし、かと言って、一方的に千秋が負けたとも考えにくい。
ということは、それなりの対峙の時間で、辛夷は彼女の実力を認めたというところだろうか。
「あんなって……どんな?」
瞼を伏せるまでもなく、春一の脳裏を過ぎる千秋の姿。
基本どおりに練習する真面目さとは裏腹に、実践の彼女は豹変する。
手近にあるものの全てを使ってでも、生き抜こうとする臨機応変さは、彼女が死の淵を見てきたせいか。
淵の向こう側にだけは行かないように、春一はその手を引いたが、いまの千秋はその距離感を十分理解し、不必要にそこに近づくことはない。
「あんなって……なんていうか……虎の子みてぇな」
辛夷の言葉は、十分春一を喜ばせると同時に、ぞわりとした感覚を背筋に覚えた。
最高の形容であり、最適の形容であり、そして──それが、彼の望む方向でもあったのだと、全身で理解したのである。
「辛夷……お前は万人隊長にまでなれるかもね」
ぞくぞくする千秋の気配に、我知らず春一の唇の端が上がっていく。
見る目のある青年に、最大の賛辞を送りながら。
「春一さん……いま俺は、物凄く嫌な予感しかしないんですけど」
辛夷は、褒めてもらったというのに、更に表情を曇らせる。
「そういうカンの良さも、出世する長所になるだろうよ」
春一は、彼の予感の半分を褒め、半分に爪を立てた。
春一自身にも──予感があったからだ。