春と秋 15
「千秋……奥歯の力を抜いて」
先生に言われるまで、千秋は自分が気持ち悪くなるくらいまで奥歯をかみ締めていたことに気づかなかった。
こんな暗い部屋では、先生がどんな顔をしているのかはよく分からないが、声はいつも通りの笑みを含む穏やかさだ。
ようやくにして、彼女は奥歯から力を抜いた。
そうしたら、カチカチと震えた歯がぶつかり合う。
「よしよし」
先生の腕に抱きしめられ、赤子にするようにぽんぽんと背中を叩かれる。
そんな自分が余りに憎くて──千秋は震える手で、先生の胸を押しのけた。
彼女の持つどんなの言葉も、彼に報いることが出来ないというのならば、言葉以外で表すしかない。
もう一度、奥歯を強く噛んで。
千秋はその場に両膝をつき、両の手をつく。
風のように自由な先生が、その中の自由をひとつ捨てた気がする。
彼女では拾い上げられないような、大きなひとつ。
千秋の希望のために、気楽にぽんと窓から投げ捨てたのだ。
そんなことは、彼女は決して望んではいなかったが、先生はそれと引き換えに、千秋に投資したのだ。
絶対、取り返す。
千秋の中で、火が燃え始める。
先生の投げ捨てた、その重い自由のひとつを、抱え上げる力を得て必ず戻すのだと。
そのために、もしもここの騎馬族と戦うことになったとしても、何ひとつためらうことなどなかった。
すっと、先生が膝を折る。
暗闇の中、すぐ側に先生の顔が来て、おかげで少しだけ彼の表情を見ることが出来た。
少し、あきれたような笑みを浮かべている。
「千秋……また変なこと、考えてるでしょ」
「……」
声は、出ない。
またも奥歯同士が貼りついてしまっていたし、怒りに近い感覚がより彼女の身体に力を入れさせていた。
「やれやれ、これじゃ明日からが心配だね」
「……っ」
千秋は、仕事をおろそかにしようなんて、これっぽっちも思っていない。
それどころか、千秋を雇わなかったかもしれないという事実を、あの松露という男に後悔させてやるとまで考えていた。
「ああ、そういう意味じゃなくてね……千秋は、馬丁くらいすぐになれるだろうから、それを心配している訳じゃないよ」
ぽんと、肩に手を置かれる。
「いまの千秋が、馬を愛せるようになったら……ここだとちょっと危険なことになりそうだね。馬馬鹿だらけだから」
先生の言葉は、時々曖昧で難しい。
ただ、本当に深刻な話をしているというより、少し茶化しているように思えた。
千秋の、身体の力を抜くためだろうか。
「だっ……」
唇の上と下を、むりやり引き剥がすと、ようやく声が出た。
「だっ、大丈夫です……危険なことは、自分が何とかします。死なない限り、戦えます」
それが出来なければ、先生のところまで上がるなんて、永遠に無理な話だ。
眉間に皺を寄せて、怖い顔でがなり立てていたのだろうか。
先生の指が、ちょいちょいと千秋の眉間に触れる。
「まあ、だいぶズレてるけど、言いたいことは分かったよ。出来れば、五体満足で生き延びてね……でないと」
言いかけて、一瞬先生が怖い気を放った。
彼女はぞくっとしたが、次の時には、自分が笑っていることに気づく。
五体満足でなければ。
先生が、引導を渡してくれるのだろうか。
そう考えると、千秋は微笑んでしまったのだ。
ああ、よかった、と。
生きて上に登り続けるか、登れない身体になっても先生に殺してもらえるのならば──怖いものなしに思えたのである。
「こんな僕を前にして、笑えるのは……千秋ぐらいだろうねぇ」
ため息まじりにちょっと肩を落とした先生は、その後しばらく小さく笑っていた。
暗い中、そんな彼の笑顔を見ていると、だんだん全身の力が抜けてくるのが分かる。
「騎馬族に負けないくらい、馬を扱えるようになります」
そしてようやく。
千秋は、馬のことを口にすることが出来たのだ。
「じゃあ、お尻の皮をあと二十回はむくことになるね……軟膏の用意をして待っているよ」
先生は笑み混じりでそう言ったが、彼女にはそれが悪いことだとは到底思えなかった。
たった二十回で済むのであれば、安いものではないか。
彼女の尻の恥など、先生が今日してくれたこととは、比べ物になろうはずもないのだから。
「さて。久しぶりに、一緒に寝ようか」
軽い言葉は、いままでの通り。
千秋の身体に、何の欲求も覚えていない人だからこそ言えるものだ。
「はい、お邪魔します」
だから、彼女はさらりとそれを受け取った。
布団は一組しかないだろうし、まだ春の夜は寒い。
湯たんぽ代わりにでも、なれれば少しは千秋の身体も役に立つというものだ。
なのに。
先生は、彼女の額にごつんと額をぶつけてきた。
「いつまでも子供のようにはいかないからね」
「分かってます! 頑張ります!」
成長を求められていることくらい、彼女にだって分かっている。
もっと、賢く強くならなければならない。
そんな千秋の宣言に。
先生は。
「分かったふりだけはうまいからなぁ」と、ぼやいていた。
信用されていないと思った彼女は──益々の精進を強く誓うのだった。
『春と秋編 終』




