春と秋 14
「万人隊長の松露だ」
千秋に向け己の名を名乗る男は、顔の大傷を除けば、目と眉の近さや眉の短さから、辛夷との血のつながりは、はっきりと分かった。
息子と同じように長い髪だが、既に白髪が半分以上出ていて、随分と年の離れた親子であることが分かる。
鋭すぎる眼光は、どんな惨劇を目の前にしたとしても、まったく怯むことはないだろう。
それを千秋に、容赦なく向けてくる。
足が後ろに下がりそうになるのを、すんでのところでこらえた。
「千秋と申します」
万人隊長が、どういう地位かはよく分からないが、おそらく騎馬族では偉い人なのだろう。
「うちの若いのが、世話になったそうじゃねぇか。これで、ちったあこの悪タレどもも、まともになるだろ。礼を言うぜ」
言葉とは裏腹に、値踏みする視線と油断の隙間もない気を、酒を煽りながら振りまいている。
「んで、春一。何しにこの女を連れてきた。若ぇ奴に、見合いの斡旋か?」
「まっさか。ここの馬房の、馬丁見習いに雇って欲しくてね」
「誰を?」
「千秋を」
「……」
松露と春一の間に、微妙な空気が漂った。
「春一……騎馬族の女ならまだしも、よそ者の女にうちの馬を触らせる気もなければ、役に立つとも思ってねぇぞ」
怒ってはいないが、先生の提案はまったくもって門前払いを受けている。
この町の騎馬族の人間からは、慕われているように見えた彼だが、これほど年上で力のある人間には、そうでもないのだろうか。
千秋は、自分に一番合う成長の仕方として、働くことを基本として選択したが、それはここでは無謀なもののように思えた。
逆に、先生に恥をかかせる結果になったのではないか。
しかし、彼は阿呆ではない。
それどころか、千秋の思考ではとても追いつききれないほど、頭の切れる男である。
この結果を、考えていなかったはずがないのだ。
いつか藤次をやり込めて小屋から追い出したように、またここでも先生は上手に──え?
千秋は、次に起きた光景を信じられず、息を詰めた。
彼は、すっと廊下に両膝をつくと、右手の拳をも床につけたのだ。
必然的にその身は、限りなく低くなる。
「隊長。どうか、この春一の願いを聞き届けてくれないか?」
衝撃が、千秋の頭蓋を打ち鳴らした。
先生が、人に手をついて物を頼んでいる姿など、これまでただの一度も見たことがない。
いまそれが、彼女の眼前で起きている。
千秋の願ったことは、彼がこれほどのことをしなければ受け入れられないほどの物凄いことだったのか。
どんな敵を前にした時より、青ざめる冷えた感情が、彼女の血から温度を奪っていく。
もし、こんな結末が分かっていたならば、千秋は決してそれを口にしなかっただろう。
多くの騎馬族が溢れかえる広間で、みなの注視にさらされながら、彼に手をつかせるなんて。
もういいですと、せり上がりかけた喉の塊を、千秋はぐぐぐと飲み下した。
彼女に、先生がついた手を、台無しに出来るはずなどない。
ちっぽけな千秋に出来ることなど、いまは、先生より低く身を落とすことだけだ。
彼の斜め後方で、千秋もまた膝をつき──両手を床につけた。
広間は、ざわりともしない。
これほど多くの男たちがいるというのに、みな呼吸を忘れたかのように静まり返っているのだ。
限りなく長く感じたその間を、最初に壊したのは辛夷の「親父……」と語りかける声だった。
「春一よ、オレぁお前がそんな真似をする奴だとは、思ってもみなかったんだがな……馬に乗らねぇ間に、何か狂っちまったんじゃねぇか?」
息子の声に、はっとなったように、松露が唸り声をあげる。
「そんなことより、願いは聞き入れられるのかい? それとも……」
先生の平らかで笑みの混じらない声に、もう一度広間は静寂に包まれるかと思われた。
「分かった分かった、馬丁見習いにでも十人隊長にでもしてやる。それでいいんだろうが」
大きな男の大きすぎる両手が、この話は、これで終わりだとでも言わんばかりにバンバンと打ち鳴らされる。
「いや、十人隊長は遠慮しとくよ」
先生は笑って、そこでようやく拳を床から上げたのだった。
千秋は。
彼女はまだ、床から両手を上げることが出来なかった。
視界に入る己の両の指先が、ぶるぶると震えているのが分かる。
先生に手をつかせた衝撃は、いまだ彼女の中心を占拠したままだったのだ。
「はい、千秋……立って」
先に立ち上がった先生が、彼女に向けて手を差し伸べる。
「春さん、彼女の部屋はどこにするんだい? 俺っちの部屋なら、いつでも大歓迎だぜ」
「うちの部屋は、厩舎に一番近いぜ」
広間の男たちの衝撃は抜け切ったのか、大きな指笛が彼らに向かってひやかしのように投げられる。
まだ差し出された手を取れずにいる千秋を見て、先生は強引に彼女の手首を掴んで立たせた。
「心配いらないよ、僕の部屋が空いてるからね」
じゃ。
広間に向けて、軽い言葉とひらひら振る片手を見せて、先生は廊下を歩き出した。
もう片方の手に、千秋を捕まえたまま。
彼女はただ、とぼとぼと引っ張られるだけだ。
ありがとうや、すみませんとは違う次元の言葉を、千秋は覚えていない。
ここで先生に何というべきか、何も浮かびはしなかった。
連れてこられた彼の部屋という一間は、隅に布団ひとつおいてあるだけの、質素なもの。
明かりもないのか、襖を閉めると月明かりさえ入ってこない。
そんな墨絵の世界にとっぷりと全身が浸かったころ──先生は、ようやく彼女の手を離してくれた。