春と秋 12
千秋は整体の後、がっくりと力尽きて、うつ伏せのまま眠りに落ちてしまった。
ぽやっと意識が戻ってくる頃、町のざわめきもまた耳に届き始める。
階下の商売の声、窓の外の人の行き交う声。
目を開けると、部屋は夕方の橙色に染まっていた。
一人、だった。
けれど、そこには誰かがいた気配は残っている。
千秋の背には、掛布が乗せられていたし、盆の上には湯飲みが二つ。片方にだけお茶が入っていて、もう片方は飲み干された跡がある。
ぼーっとする頭で起き上がると、身体が楽になっているのが分かった。
整体前は、動くに動けないものを無理やり動かしていた感じだったが、随分マシになっている。
そんな身体を、少し畳から浮かせながら、千秋は視線を巡らせた。
先生を探したが、姿は見えない。
掛布を落とし立ち上がり顎を巡らせると、先生が見えた。
最初のように、窓の外の屋根の上に座っていたのだ。
のろのろと彼女は、開いたままの窓辺に近づく。
「先生」
「畳の跡がついてるよ」
呼びかけに、彼はちょんちょんと自分の左の頬を指す。
畳の上に、うつぶせでぐっすり寝ていたのだから、ついても当然だろう。
千秋は、ごしごしと左の頬をこすった。
昼間に尻を見られたことより、こっちの方が恥ずかしかった。
惰眠を貪る、だらしない女のように思えたからだ。
執拗に、腕や袖でごしごしと拭き続けていたら、立ち上がった先生がこちらへ戻ってくる。
中に入るのかと、横にずれて窓の前を空ける。
夕日に照らされた彼の影が、斜めに差し込んでくる、その黒い影の中に入った。
「馬は……気に入ったかい?」
しかし、先生は乗り越えて戻ってくるわけでもなく、窓ごしに千秋に問いかける。
馬。
彼女は、寝起きの緩やかな思考で、その生き物を思い出した。
千秋の尻の皮をはいだ、張本人である。
しかし、騎馬族にとっては大切な、なくてはならないもの。
先生を見上げると、笑ったような糸目が真っ直ぐにこちらを向いている。
「まだ、分かりません。乗れるようになっただけで、手入れの仕方も知りませんし」
速く走る便利さ以外のことを、まだ千秋は知らないのだ。
いまの彼女にとって、馬とは慣れない道具の域を出ていなかった。
「馬をもっと、扱ってみる?」
窓に片手をかけ、彼は顔だけを部屋の中に入れる。
千秋の方へ。
その糸目を見つめながら、彼女は少しずつ回り出した思考で、言葉の意味を考えた。
単純に聞けば、千秋が望めば馬の扱いを学べるということだ。
騎馬族が多いというこの町ならば、容易にそれは出来るのだろう。
だが、何かを学ぶためだけに生きる時間というものを、彼女はこれまで持っていなかった。
食料を得ることも戦いも、毎日の命がかかっているからこそ学んだことである。
ただ、本当に強い人間──辛夷のような人間と向き合った時、それだけでは足りないと痛感した。
だから、馬を力のひとつとすることに、異論はない。
けれど、それも先生が教えてくれた戦い方のように、一朝一夕に手に入るものではないだろう。
時間がかかるというのならば。
「馬を扱う仕事……私でも出来る仕事、ありませんか?」
ならば千秋は。
やはり、学ぶために学ぶのではなく、生きるために学ぶ方が自分には合っていると思った。
生きるには、ご飯を食べなければいけないし、どこかで眠らなければならない。
町でそれをするためには、どうしてもお金が必要だ。
そのお金が得られるように、働きながら知識を得たいと考えたのだ。
ふふふと、先生が笑った。
「いいね、千秋……君は本当に賢いよ」
よっと。
窓をまたぐと、彼は部屋の中へと戻ってくる。
「じゃあ、行こうか」
先生について階下に下りると、「世話になったね」「いえいえ」と、軽妙な挨拶を店主と交わす。
「お世話になりました」
千秋も礼を告げると、店主がニヤニヤして彼女を見ている気がした。
まだ、顔に畳跡が残っていたのだろうか。
千秋が、ごしごしと左頬をこすっていると。
「春一さん……随分趣味が変わりましたな」
「いーや、全然変わってないよ」
ニヤニヤの店主に、先生はにーっと笑って返したのだった。




