春と秋 11
いろいろ話したいことがあった。
千秋は、商店の二階で先生と、心ゆくまで語らいたいと思っていたのに、いきなり「ちょっと上げるよ」という軽い言葉と共に、立ったまま着物の裾を後ろから引き上げられてしまったのだ。
下着である腰巻ごと、一気に尻までめくれあがったのが分かる。
驚いて抵抗しかけた千秋だったが、すぐにその気を降下させた。
先生は、彼女の尻そのものに興味があったわけではなく、尻の皮を見ようとしたのだ。
馬に乗れるようになりました、なんて報告をしたことが、こんなところで祟ったのである。
先生にかかれば、初心者が馬に乗ればどうなるかなんて、お見通しだったろうに。
「うわぁ……派手にやったね」
感嘆の声に、千秋は恥ずかしくなった。
内股から尻にかけて、それはもう血のにじんだ真っ赤の状態だったろうから。
「ちょっと、ここにうつ伏せで寝ていて」
しばらくの間、眺め回した後、先生は着物をようやく下ろしてくれた。
そのまま、再び階下に行ってしまう。
部屋は、六畳ほどの小さな一間だ。
窓は開いたままでそこから覗くと、先生が日向ぼっこしていた屋根が、すぐ側に見える。
千秋は、窓辺から離れると、言われた通りに古畳の上にうつ伏せになった。
正直、座って待っていてと言われるよりは、比較にならないほどマシな体勢である。
身体中の痛みと、皮のはげた尻の痛みを足した時、一番楽な姿勢がこれだろう。
気を抜くと、抜け切っていない疲労で眠ってしまいそうだ。
幸い、彼女が寝入ってしまう前に、先生は戻ってきた。
手桶に手ぬぐい、軟膏の瓶。
彼が何を意図しているか分かって、千秋が両腕で少し上半身を起こした。
「ありがとうございます、自分でやれます」
うつ伏せのまま手を伸ばして、先生から手ぬぐいを受け取ろうとしたのだが、「いいよ」と軽く拒否されてしまった。
いえ、あの。
先生に尻を見られただけならまだしも、そんなひどい有様のところを拭かせるなんてとんでもない話である。
もう一度、説得しようとしたら。
「この辺、バキバキだろう?」
不意に腰に食らった指圧の一撃は、千秋の脳まで激痛を走らせ、畳に轟沈させられた。
「……ぃたくないです」
その衝撃の中、彼女はひっくり返りそうな声を絞り出す。
一人で旅をして、ここまで来たとは言え、こんな有様では何かすぐにやれと言われても、使い物になるはずがない。
先生に、きちっとしたところを見せたかった千秋は、その目論見がどんどん崩れていくのを知った。
だが、そんなのは最初から分かっていたことだ。
彼女のやらかした失敗は、先生に隠せはしないのである。
そうこうしている内に、着物は再びめくられ、ひやっとする感触が尻の上に乗せられた。
冷たい井戸の水をひたした手ぬぐいが、情けなくも気持ちいい。
その感触を受け入れながら、千秋は足りない自分を悔しいと思った。
一人で旅をしたからこそ、己の実力をよくよく分かったのだ。
「ふふふ……千秋だねぇ」
痛ませないように、ゆっくりと手ぬぐいが動く感触と、愉快そうな笑い声。
何だか嬉しそうに自分の名前を呼んでくれるものだから、へこみかけた気持ちがふわっと浮き上がる。
「お手数をかけてっ……すみません」
手ぬぐいが内股に入ってきて、声が裏返りそうになる。
「想像出来ないことを、してくるっていう意味だよ。まさか、尻を腫らしてくるとは」
先生は、本当におかしそうな笑いに変わっていく。
「必要だったので……」
いろいろ恥ずかしい思いを交錯させながら、千秋はうつ伏せのまま畳のささくれを見ていた。
他に見るものが、何もなかったから。
「命がかかると、千秋は強いからね」
手ぬぐいが取り払われ、ひやっとした空気が濡らされた場所を通り抜ける。
強く、ないです。
その言葉を、千秋は飲み込んだ。
先生の褒めてくれることは、嬉しかった。
ただ、一人旅を経験した今、その言葉に素直に寄り添えないだけ。
先生のいる高さまで、一体どのくらい登ればいいか分からないまま、ただがむしゃらに駆けているばかりだ。
こんな、無様な姿を晒しながら。
瓶の蓋の開く、軽い音。
ぬるっとした膏薬が、触れる風を遮断していく。
他の人に、お尻に膏薬を塗ってもらうなんて──まるで子供だ。
それが、いまの千秋の立ち位置。
だが、子供は成長する。
先生が、その成長を見守ってくれている今、千秋はもっと伸びていかなければならなかった。
「はい、終わり。さて、あとは身体だね」
「……っ!」
さっきの指圧よりは、弱い力の指が腰を押す。
それでも、いまの彼女には破壊力抜群だ。
先生の整体を、気持ちいいなんて言える余裕など──どこにもなかったのだった。