春と秋 10
ようやく、千秋は西七理の町に入ることが出来た。
困ったことに、辛夷が一緒だ。
雉を抱えている彼女に、いい店を紹介すると言ってくれたので、千秋は素直にそこは彼を利用することにした。
いい人間であるのは、分かってはいるのだが、自分の心が動く気配はない。
針の先は、ずっと先生の方を指したままだ。
だが、簡単な言葉では、さっぱりあきらめる気配がなかった。
思えば、藤次も花枝に執着していたし、花枝もまた先生にそうだったではないか。
あれは、騎馬族に強く出る特徴なのだろうか。
今にして千秋は、藤次に言い寄られる花枝の気持ちが、少し分かった気がした。
料理屋に雉を卸したところで、千秋は自分の引いていた馬の手綱を、辛夷に突き出した。
「馬、どうもありがとう」
正確には、彼の仲間の馬である。
しかし、もはや千秋は、馬を引いて歩く必要はない。
そして、辛夷と一緒に歩く必要もない。
ふたつを同時に解消するために、千秋は馬を彼に返そうとしたのだ。
彼もまた、自分の馬を引いている。
それぞれの手で馬を引けば、さすがに千秋を追ってくる足は鈍るだろう。いや、もしかしたら一切鈍らないかもしれないが。
馬に関して、辛夷に甘い期待をするのはやめようと、千秋は思った。
それは、ことごとく裏切られてきたのだから。
「春一さんの場所は……俺には聞かないんだろうな」
渋い顔で手綱を受け取りながら、辛夷は千秋を見下ろす。
いい人だったな。
彼の言う愛情はよく分からないが、いろいろなことを彼から聞き、学ぶことが出来た。
それは、間違いなかった。
だから。
「お世話になりました、どうもありがとうございました」
丁寧なお辞儀と共に、それを千秋は彼への別れの言葉にした。
さあ、先生を探そう。
身軽になった身体で、くるりと踵を返し、千秋は春一を探すために歩き出した。
「誰かに聞いて探すも、俺に聞くもおんなじだろ?」
後ろから、少し不機嫌に声が投げつけられる。
それは違うと、千秋は思った。
利害が一致する取り引きや、情報に何の感情も付随していなければ、受け取りやすい形をしている。
けれど、辛夷の差し出すものは、彼女には受け取りにくいのだ。
多分。
彼が、いい人だったから。
いい人だから──あまり利用したくないと思ったのだ。
既に、彼女は雉売りで辛夷を使っている。
それで、十分だった。
ああ。
自分の身体の中に、温かい人の血が流れているのを、千秋は辛夷という人間ごしに感じた。
同じ身体で、誰かの命を奪うことがあっても、その血の温度は、きっと余り変わらないのだろう。
先生が、そうなのだから。
地史君を守るために、先生は多くの人を殺したろうし、千秋を助ける時も、ためらわずにそうした。
でも、先生は決して冷血ではない。
人の血の温度を持っている。
その温度で、先生に触れたかった。
だから、さあ、先生を探すのだと、彼女は前を向く。
千秋はもう、辛夷を振り返らずに歩き続けた。
お尻も足もヒリヒリするし、身体はガタガタであんまりしゃんと出来そうにはない。
けれども、千秋は先生に胸を張って会いたかった。
背筋を伸ばして、足を真っ直ぐに振り出して。
そんな彼女が通り過ぎたすぐ後方で、くすっと小さな笑い声が聞こえてくる。
その風が。
こう言った。
「素通りかい?」
空耳かと、思った。
笑みを含んだその音が、耳の中に滑り込んできた瞬間、しかし、千秋は即座に振り返っていた。
いない。
いるのは、辛夷と馬二頭と、他の通行人だけ。
やはり、空耳だったのだろうか。
いや、違う。
そんなはずはない。
いくら、会いたくてしょうがなかったからと言って、それを彼女が聞き間違うはずなどないのだ。
千秋は──そっと、視線を上げた。
いた。
商店の二階、いや一階と二階の間の小さな屋根の上に、その人はいたのだ。
昼下がりの春の日差しの中、心地よさそうに足を投げ出して座っている着物姿。
その、細い目。
千秋は、反射的にピキピキの身体を、きっちりしゃきっと伸ばした。
そして。
「春一先生、遅くなりました」
深々と、頭を下げる。
嬉しい。
地面を見つめたまま、千秋の胸にはいっぱいの幸せがあふれ出していく。
人は、いつか死ぬ。
もしかしたらこの旅の途中、再会出来ないまま死ぬこともあったかもしれない。
そんな境を踏み越えて、ようやく彼女は先生と会えたのだ。
「うん、分かったから顔を上げて」
声に引っ張られるように、顔を持ち上げようとしたら。
真横に素足が着地した。
驚いて視線を向けると、先生がそこにいる。
そう高くはないとは言え、屋根から飛び降りたのか。
いきなり間近に先生がいて、千秋はどうしたらいいのか、よく分からなくなってしまった。
嬉しさだけではない心のざわめきが、彼女の中で暴れ出す。
だが、それらを全部、先生に押し付けるわけにはいかない。
重いものは、まだ自分で抱えているべきだ。
だから、千秋は先生に微笑もうとした。
「春一先生……会いたかったです」、と。
なのに。
「うわあ、ひどい身体だね」
先生は、いきなり千秋の身体を抱きこむや──分かりやすい酷い言葉を言ってくれた。
整体の出来る彼には、触るだけでボロボロなのが分かってしまったのだろう。
けれど、代わりに体温が伝わってくる。
触れたかった身体に向こうから触れられて、千秋は胸が苦しくなった。
「はい、一人で馬に乗れるようになりました」
これだけ言えば、この身体の理由もきっと先生は分かってくれるはずだ。
「そう、じゃあほぐしてあげるよ、おいで」
飛び降りた商店に、千秋は引き入れられた。
ここが、先生が厄介になっているところなのだろうか。
「おっちゃん、もうちょい二階借りるよ」
店主に彼がそう言うと。
「春一さん、何で下にいるの?」
店主は、二階へ行く階段と、彼の裸足の足を慌てて見比べていた。
それがおかしくて、でも幸せも強すぎて──千秋は、頭がおかしくなってしまいそうなくらい、にこにこしている自分を知ったのだった。