表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/71

春と秋 10

 ようやく、千秋は西七理の町に入ることが出来た。


 困ったことに、辛夷こぶしが一緒だ。


 雉を抱えている彼女に、いい店を紹介すると言ってくれたので、千秋は素直にそこは彼を利用することにした。


 いい人間であるのは、分かってはいるのだが、自分の心が動く気配はない。


 針の先は、ずっと先生の方を指したままだ。


 だが、簡単な言葉では、さっぱりあきらめる気配がなかった。


 思えば、藤次も花枝に執着していたし、花枝もまた先生にそうだったではないか。


 あれは、騎馬族に強く出る特徴なのだろうか。


 今にして千秋は、藤次に言い寄られる花枝の気持ちが、少し分かった気がした。


 料理屋に雉を卸したところで、千秋は自分の引いていた馬の手綱を、辛夷に突き出した。


「馬、どうもありがとう」


 正確には、彼の仲間の馬である。


 しかし、もはや千秋は、馬を引いて歩く必要はない。


 そして、辛夷と一緒に歩く必要もない。


 ふたつを同時に解消するために、千秋は馬を彼に返そうとしたのだ。


 彼もまた、自分の馬を引いている。


 それぞれの手で馬を引けば、さすがに千秋を追ってくる足は鈍るだろう。いや、もしかしたら一切鈍らないかもしれないが。


 馬に関して、辛夷に甘い期待をするのはやめようと、千秋は思った。


 それは、ことごとく裏切られてきたのだから。


「春一さんの場所は……俺には聞かないんだろうな」


 渋い顔で手綱を受け取りながら、辛夷は千秋を見下ろす。


 いい人だったな。


 彼の言う愛情はよく分からないが、いろいろなことを彼から聞き、学ぶことが出来た。


 それは、間違いなかった。


 だから。


「お世話になりました、どうもありがとうございました」


 丁寧なお辞儀と共に、それを千秋は彼への別れの言葉にした。


 さあ、先生を探そう。


 身軽になった身体で、くるりと踵を返し、千秋は春一を探すために歩き出した。


「誰かに聞いて探すも、俺に聞くもおんなじだろ?」


 後ろから、少し不機嫌に声が投げつけられる。


 それは違うと、千秋は思った。


 利害が一致する取り引きや、情報に何の感情も付随していなければ、受け取りやすい形をしている。


 けれど、辛夷の差し出すものは、彼女には受け取りにくいのだ。


 多分。


 彼が、いい人だったから。


 いい人だから──あまり利用したくないと思ったのだ。


 既に、彼女は雉売りで辛夷を使っている。


 それで、十分だった。


 ああ。


 自分の身体の中に、温かい人の血が流れているのを、千秋は辛夷という人間ごしに感じた。


 同じ身体で、誰かの命を奪うことがあっても、その血の温度は、きっと余り変わらないのだろう。


 先生が、そうなのだから。


 地史君を守るために、先生は多くの人を殺したろうし、千秋を助ける時も、ためらわずにそうした。


 でも、先生は決して冷血ではない。


 人の血の温度を持っている。


 その温度で、先生に触れたかった。


 だから、さあ、先生を探すのだと、彼女は前を向く。


 千秋はもう、辛夷を振り返らずに歩き続けた。


 お尻も足もヒリヒリするし、身体はガタガタであんまりしゃんと出来そうにはない。


 けれども、千秋は先生に胸を張って会いたかった。


 背筋を伸ばして、足を真っ直ぐに振り出して。


 そんな彼女が通り過ぎたすぐ後方で、くすっと小さな笑い声が聞こえてくる。


 その風が。


 こう言った。


「素通りかい?」


 空耳かと、思った。


 笑みを含んだその音が、耳の中に滑り込んできた瞬間、しかし、千秋は即座に振り返っていた。


 いない。


 いるのは、辛夷と馬二頭と、他の通行人だけ。


 やはり、空耳だったのだろうか。


 いや、違う。


 そんなはずはない。


 いくら、会いたくてしょうがなかったからと言って、それを彼女が聞き間違うはずなどないのだ。


 千秋は──そっと、視線を上げた。


 いた。


 商店の二階、いや一階と二階の間の小さな屋根の上に、その人はいたのだ。


 昼下がりの春の日差しの中、心地よさそうに足を投げ出して座っている着物姿。


 その、細い目。


 千秋は、反射的にピキピキの身体を、きっちりしゃきっと伸ばした。


 そして。


「春一先生、遅くなりました」


 深々と、頭を下げる。


 嬉しい。


 地面を見つめたまま、千秋の胸にはいっぱいの幸せがあふれ出していく。


 人は、いつか死ぬ。


 もしかしたらこの旅の途中、再会出来ないまま死ぬこともあったかもしれない。


 そんな境を踏み越えて、ようやく彼女は先生と会えたのだ。


「うん、分かったから顔を上げて」


 声に引っ張られるように、顔を持ち上げようとしたら。


 真横に素足が着地した。


 驚いて視線を向けると、先生がそこにいる。


 そう高くはないとは言え、屋根から飛び降りたのか。


 いきなり間近に先生がいて、千秋はどうしたらいいのか、よく分からなくなってしまった。


 嬉しさだけではない心のざわめきが、彼女の中で暴れ出す。


 だが、それらを全部、先生に押し付けるわけにはいかない。


 重いものは、まだ自分で抱えているべきだ。


 だから、千秋は先生に微笑もうとした。


「春一先生……会いたかったです」、と。


 なのに。


「うわあ、ひどい身体だね」


 先生は、いきなり千秋の身体を抱きこむや──分かりやすい酷い言葉を言ってくれた。


 整体の出来る彼には、触るだけでボロボロなのが分かってしまったのだろう。


 けれど、代わりに体温が伝わってくる。


 触れたかった身体に向こうから触れられて、千秋は胸が苦しくなった。


「はい、一人で馬に乗れるようになりました」


 これだけ言えば、この身体の理由もきっと先生は分かってくれるはずだ。


「そう、じゃあほぐしてあげるよ、おいで」


 飛び降りた商店に、千秋は引き入れられた。


 ここが、先生が厄介になっているところなのだろうか。


「おっちゃん、もうちょい二階借りるよ」


 店主に彼がそう言うと。


「春一さん、何で下にいるの?」


 店主は、二階へ行く階段と、彼の裸足の足を慌てて見比べていた。


 それがおかしくて、でも幸せも強すぎて──千秋は、頭がおかしくなってしまいそうなくらい、にこにこしている自分を知ったのだった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ