千の秋 4
糸目先生が、箪笥を漁っている。
夕餉を終えた時間、囲炉裏で燃える炎だけで探し物は大変そうだ。
手伝おうかと千秋が立ち上がりかけた時、「あったあった」と、先生は何かを引っ張り出した。
「はい」
差し出されたのは、赤地に白い花の描かれた着物。
晴れ着ほどの美麗さではないが、普段使いにしては良い物だと分かる。
「え?」
差し出された女物のそれを、反射的に受け取ってしまいながらも、千秋は意味が分からずに先生を見上げる。
「あげる。ちょっと大きいかもしれないけど、おはしょりで調整出来るよね」
にこにこと、あっけらかんと。
ただ「あげる」ために出した以外の何の思惑もなさそうな、幸福が絵になったような笑顔。
菩薩のようだと思ったこともあるが、千秋はここ数日は少し考えを改め始めていた。
彼は、人である、と。
悩みや苦しみがないなんて、人にはありえない。
いまはこんな風に、笑顔を浮かべている彼であったとしても、過去もまたそうだったわけではないのだ。
事実、こうして箪笥から女物の着物が出てくる。
ここに、女性がいたということの証拠。
先生は、年齢が分かりにくい顔をしているが、十代なんてありえない。おそらく二十代後半くらいではないだろうか。下手したら三十代。
女性と暮らしていたとしても、何らおかしくはなかった。
その女性が、いまはどうなったかは分からないが、少なくとももう彼の元にはいないのだ。
「こんないい物……もらえません」
先生の悲しい部分に触れた気がして、千秋はついそれを押し返そうとした。
これを着た自分を見て、彼は昔を思い出してしまうのではないかと思ったのだ。
「討ち入りする時に着てよ。思い切り綺麗に着飾って、ぶっとばしておいで」
なのに。
先生は、愉快でしょうがないという風にケラケラと笑うのだ。
千秋が、この着物で男をぶっとばしている姿を、想像しているのだろうか。
そっか。
彼女は、着物を見つめた。
そっか、死に装束にくれたんだ。
女として生まれて十六年。
一番のよかった頃と言えば、幼少の内町住まいの時だった。
商家の次男坊だった父は兄の店で働いていて、身内びいきの援助の入った給金のおかげか、それなりの暮らしが出来ていた。
その頃は、姉たちのおさがりではあるが、千秋もよい着物を着ていた気がする。
これを着て、死ぬならいいか。
最後の最後に、力を貸してくれた先生に見守られて死ねるように感じた。
先生の昔の女性への悲しい思いも、それと一緒に死ぬといい。
「ありがとうございます、私、頑張ります!」
ぎゅっと綺麗な着物を握りしめ、彼女は糸目先生を見上げた。
「あー……なんか、また変な事考えてるでしょ」
そんな千秋に、彼は苦笑いを浮かべていた。
※
「あの着物、着ないの?」
相変わらず、着たきりスズメのボロ着物で鍛錬に励む彼女に、糸目先生が問いかける。
「はい、あれは一張羅ですから。大事な最後に着ま……うっひゃ!」
返事が終わる前に撫でられる尻に飛びあがりながらも、千秋はその手を掴んで一回転させていた。
ほとんど体重を感じないほど、とすっと彼は落ちる。
わざと技をかけられたのだと分かるほど、それは静かだった。
さすがです、先生。
性的な嫌がらせから技の終わりまで、きっと頭の中で台本が出来上がっているのではないかと思えるほど、素晴らしい流れだった。
逆に、その台本のために、まったく鳥ガラな身体を触らなければならない先生が、かわいそうに思えるほどである。
ご愁傷様、と言うべきか。
もらった着物は、確かに彼の言うように少し大きかった。
おそらく、千秋よりも肉づきのいい女性のものだったに違いない。
さぞや先生は、彼女の身体に触った時に、悲しい気分を味わっているだろうと思えたのである。
だが、これでも少しは肉がついてきたのだ。
ここの食事は、主に山菜や先生が捕まえてきた鳥や獣の肉。
外村にいた時とは比べ物にならないほど、おなかいっぱい食べられていた。
家族のことを考えると、後ろめたく思うほど。
死んだ気になって戦う修行に明け暮れるはずの千秋だったが、ここは余りに居心地が良すぎる。
死と等価交換したのならば、ここは修羅の道でなければならなかったはずなのに、先生は明るくて優しいし、食事もおいしい。
足りないものなんて、何も気にならないほど、ここは幸せだった。
弱い心が、彼女の足を引っ張っている。
この先にある、いつか必ず来る修羅の道を避けたいと思う心だ。
それは、この幸せな時間が産みだした弊害でもある。
だが、千秋は行かなければならない。
父のため家族のため、犠牲になった姉たちのため、自分も身を捧げるつもりだったのだから。
そして。
「うんうん、そろそろ及第点かな」
地面に転がったまま、先生がにこにことして言った。
転がした千秋は、それを少し茫然としながら聞いていたのだ。
ついに、その時が来た、と。