春と秋 9
辛夷は、先に行った。
いくら千秋が乗馬を習ったからと言って、一朝一夕で彼のような馬の扱いが出来るようになるわけではない。
馬を疲れさせずに、速く長い距離を走らせることの出来る男は、先を走り始めるとほどなくしてその背中を消した。
騎馬族とは言え、本当に見事なものである。
俺たちは、歩くより先に馬に乗ることを覚えると、辛夷は大げさな話をしていた。
元々、遊牧種族ということで、馬で家畜を追うのは文字を習う前の子供でも出来るという。
道理で、千秋があんなにも簡単に追いやられたわけである。
たまたま、出会ったのが先生と同じ一族の人間だったからよかったものの、そうでなければ今頃彼女はどうなっていたのか。
先生に合格点をもらうには、とても恥ずかしい結果となってしまった。
『町に入る許可証は持ってるな? もし、門番に何しにきたかって聞かれた時、春一さんの名前を出したくないなら、「辛夷に馬を届けに来た」って言えばいい』
もう楽な道はいいというのに、ご丁寧に千秋の助けの言葉まで残していってくれる。
顔の割には、本当に親切な男だった。
※
それからは、大きな混乱もなかった。
ただ、千秋の馬ズレである内股や尻の皮は、新しく出来る前に破け続けることを繰り返すだけ。
街道には騎馬が増え、千秋は多くの人に追い抜かれていった。
夕暮れが近づき、彼女はどこかで野宿をするかと考えていたが、後方から突進してきた馬上の男が怒鳴った。
「ほら、急がねぇと、もうちょいで門閉められるぞ!」
はっと、千秋は慌てて馬の腹を蹴った。
視界の邪魔をしていた緩い丘に、登ってみれば別世界が広がっていたのだ。
大きな大きな壁を持つ町が、丘の向こうにあったのだ。
西七理の町。
ついに千秋は、そこへとたどりついたのである。
日が沈むと、閉ざされてしまう町の門。
千秋は、そこへと滑り込むか一瞬迷った。
町は、非常に大きい。
入ってもすぐ、先生を探せないかもしれない。
そうなれば、町の中で野宿という、非常に厄介な事態になってしまう。
町の中は警備が厳しく、そこらでごろんと女が寝られるわけではない。
前の町の、藤次がいたような賭場の辺りであれば、出来ないことはないのだが、千秋のような小娘がそんなことをすれば、一晩に何人も投げ飛ばさなければならなくなるだろうか。
金は、全部辛夷にあげてしまったので、どこかに泊まれるわけもない。
町に入るだけなら、彼の言った方法を使えば、きっと簡単に出来るが、それでは駄目なのだ。
入って、そして先生を探して再会するまで──それが、千秋に課せられたものなのだから。
町の火を見ながら、彼女は馬首を返した。
ここまで来られたのだ。
もはや、急ぐ旅ではない。
慎重に、先生と再会する道を探すのだ。
千秋は、町とは違う方向に森らしきものを見つけ、そこへ向かって馬を走らせ始めたのだった。
※
「こんなところにいやがった……何してんだ」
翌日、昼過ぎに森を出ようとしていた千秋は、馬で駆けてきた辛夷と再会した。
相変わらず、鮮やかな色の着物だ。
こういうものを男が着るのが、町では流行っているのだろうか。
「ちょっと稼いでおこうと思って……」
千秋は、雉を二羽詰め込んだ籠を、彼に見せた。
急ごしらえでいろいろ準備したため、こんな時間になってしまった。
「お前なぁ……だから、金は返すって言っただろ?」
頭に手をやって、彼は大きなため息をついている。
「あれは、有効に使えたからいいです。馬に乗れるようになりましたし」
籠を背負って、千秋は昨日よりも痛い身体で、何とか馬に跨った。
すりむけたところも痛いのだが、慣れない乗馬を長時間続けたため、全身が筋肉痛という状態だったのだ。
あとどれほど乗り続ければ、彼女の身体は楽になるのだろうか。
「やれやれ、強情というか何というか……けど、お前のことは嫌いじゃないぜ」
ゆっくりと並足で歩き出す千秋の横に、辛夷は馬を寄せて併走する。
「……?」
変な話に、千秋は首を傾げた。
そんな彼女に、彼は目を細めながらこう言ったのだ。
「お前のこと、気に入ったって言ってんだよ……この辛夷様が、嫁にもらってやってもいいぞ」
見知らぬ言葉が、そこには並んでいた。
長らく、触っていなかった言葉。
その言葉はとても眩しく、つい触れてしまうような思いで見つめた後、彼に静かにこう返したのである。
「ええと……お断りします」
「おい」
辛夷は、物凄く苦い顔を浮かべた後、あーやれやれと笑い出す。
「騎馬族は、女に惚れるとしつこいって知らないのか? まあ、知らねぇか……一回断られたくらいであきらめるかよ」
千秋は、困った。
殴ってくる相手には、殴ればいいし、穏やかな相手には穏やかに接してきたつもりだ。
だが。
愛を伝えてくる男相手にどう対処すればいいのか──それはまだ、知らなかったのである。