春と秋 8
「さて、騎馬族の話は大体分かったろ……少しは、自分の話をしろよ」
辛夷は、目を細めて千秋を見ていた。
彼女がすっかり黙り込んだことに、怪訝が隠せない様子だ。
彼の語ったそう遠くない昔話が、どれほど千秋を驚かせたかなど、理解出来るはずもない。
彼女は、大きく深呼吸した。
突然始まった、先生の昔をたどる旅の力は物凄く、彼女の心までも押し流してしまった。
しかし、それはあくまでも昔の話に過ぎない。
だからと言って、いまの先生が何か変わるわけではないのだ。
それに、千秋の名前に秋が入っているからと言って、それがどうだというのか。
彼にとっては、縁起の悪い名前かもしれないが、所詮は名前に過ぎない。
彼女の名前は徳政君に与えられたものではなく、両親にもらったものだ。
忌まわしさなど、あろうはずがない。
そこまで整理出来て、改めて千秋は辛夷の方を向き直った。
偶然出会った、騎馬族の男。
先生と、同じ種族の。
すぅっと、息を吸う。
これから、とても大事なことを口にするのだ。
美しい空気を吸いたかった。
そして。
言った。
「春一という人を、知っていますか?」
※
「知っているも何も……」
辛夷は、困惑した表情を浮かべている。
何故、その名が千秋の口から出るのか、理由が分からないのだろう。
騎馬族でもない彼女と、先生の接点が想像出来なくて当然だ。
普通の接点では、ないのだから。
偶然なのか、運命の悪戯か。
千秋は、先生と生死の境で出会った。
いや、生死の境でなければ、きっと出会うことはなかっただろう。
「私は、西七理に、春一先生に会いに行くところです」
ついに彼女は、己の目的を辛夷に吐露した。
道が、つながった。
過去を経由するという回り道をしたが、ここにきてようやく千秋の前に西七理への道が開けたのだ。
刹那。
「は……はは、分かった! やっと分かったぜ! 千春!」
辛夷は、弾けるように大きく笑い出した。
そうかそうかと、彼女の肩を強く叩き始める。
「そうか……千春、お前は春一さんの弟子か、ああ、そりゃあんな戦い方になるわな」
馬に乗る以外は、確かにあの人流だ。
彼は、羨望に満ちた瞳の色で、千秋を見つめた。
春組に入りたかったという若者である。
春組にいた春一を知っているのなら、羨望の対象で見ていてもおかしくはなかった。
その前に。
ひとつ、千秋は彼に訂正しておかなければならないことがあった。
「あ、私の名前……千春は嘘」
「嘘かよ!」
機嫌よく笑っていた辛夷の顔が、突然険しくなり鋭い声で突っ込まれる。
「いや、まあ、春一さんの弟子だから、しゃあねえか……で、本当の名前は?」
その顔が、険しいながらも苦笑に近い色に変わった。
春一という印籠が、彼の機嫌を大きく落とさずに済んだのか。
「千秋」
即答すると、何とももやもやする表情に変わった辛夷が、あーうーと二、三度唸った後に、こう言った。
「そんな縁起の悪い名前は捨てて、千春の方がいいんじゃねぇか?」
千秋は、丁重にお断りした。
この名前に、恥じるところはない。
先生が、「千秋」と呼んでくれるのだ。
その名を、どうして手放そうか。
「やれやれ、春一さんのお客にあいつら手を出そうとしてたのか……後で死ぬほど後悔するだろうぜ」
さてと。
あきれたり困ったり、いろいろ忙しそうな辛夷だったが、大きく伸びをひとつして馬を呼ぶ。
ただ話をしていただけなのに、物凄く長く感じた休憩の時間も、これで終わりのようだ。
「春一さんのお客なら、騎馬族は歓迎だ。馬の乗り方だけじゃなく、西七理の町まで、安全に連れていってやる。金も返す」
寄ってくる馬に片手をかけながら、彼はこれから先の道のりを安らかにする話をしてくれた。
「……」
千秋は、自分の乗る馬を受け取り、内股と尻の痛みをこらえて、よいしょと跨る。
そして、辛夷の好意にこう言ったのだ。
「馬の指導だけで十分ですし、お金も返さなくていいです」
余り楽な旅路になっては、自分が成長している姿を先生に見せられなくなってしまう。
自分で稼いだお金で、馬の乗り方を習得し、一人で西七理にたどり着く。
それが、一番の道だと思えたのだ。
「遠慮なんかするなよ」
だが、元々いい性質の男なのだろう。
千秋に、楽させようとしてくれる。
だから。
「ええと……お断りします」
彼女は曖昧ではなく、きちんとした言葉で断ることにした。
「遠慮じゃなくて拒否だったのかよ」
馬に乗ろうとしていた彼は、脱力したようにその大きな腹になついたのだった。
辛夷は──面白い男だった。