春と秋 7
「地史様? ああ、そうか……仁大皇帝って言わなきゃ、他の連中には分からないよな。俺たち騎馬族は、そんな取り澄ました名前じゃ呼ばないがな」
辛夷の声より、自分の心臓の音が大きくなっていくのが聞こえる。
どくんどくんと、たったいま聞いた言葉の大きさを、咀嚼しきれないまま大きな鼓動を打ち付けているのだ。
地史、仁大皇帝、騎馬族。
それらの言葉が、ぐるぐると頭の中を巡る。
じゃあ。
千秋の脈打つ喉の中に、もうひとつの言葉があった。
「じゃあ……徳政君って」
それを、口に出す。
瞬間。
辛夷の表情が、険しいものに変わった。
「あー……馬にも乗らない香木族の女の息子か。よくもまあ、いけしゃあしゃあと、地史様に喧嘩売ったものだよな」
言葉は、千秋の思考を打ちのめした。
ああ、ああ、と。
久しぶりに覚えた、強い慟哭が心の中を荒れ狂う。
そうだったのですね、と。
千秋は、先生に向かって語りかけていた。
「戦ったのね、その人たち」
彼女の声に、辛夷はにやっと口の端を上げる。
「ああ、地史様とそいつの殺し合いだぜ。悠伊様の生き写しの地史様が、負けるわけがないってぇのに」
消化しきれないまま、千秋は多くのことを彼に教えられた。
騎馬族は、末子相続であること。
皇帝は、騎馬族の妻の中の一番末の息子である地史を、自分の世継ぎにしようとした。
そこでくちばしを挟んできたのが、香木族の妻の派閥だという。
十三歳で受けるという『皇子の儀』を越えた子の中で、一番下だったのは地史と徳政の二人だったのだ。
しかも、徳政の方が一月遅く生まれている。
末子相続であるというのならば、徳政君の方がよりふさわしいではないか、と。
それを聞いた皇帝は、「では、お前たち二人、殺し合って生き残った方を世継ぎにしよう」と、あっさりと言ったという。
地史側も徳政側も、己の血で固めた戦闘集団を準備した。
実質、騎馬族と香木族の争いとなったのだ。
そして──地史が勝ち、彼は今の皇帝になった。
一方、千秋は。
先生は、騎馬族だったのですね。
その結論に、たどりついていた。
どんなことでも出来る先生だ。
馬に乗ることも、その中のひとつだと思っていた。
馬を見分ける目も。
けれど、そうではなかった。
彼は、今でこそ違え、昔はきっと馬の上で多くの時間を過ごしていた人だったのだ。
先生の過去がつながり、千秋は昔の彼と、そこで出会った気がした。
彼は、地史側についた人だったのだ。
背中に走る痛々しい多くの傷も、きっとその人を守るために背負ったものなのだろう。
結果──目的は達成され、先生は地史君から離れたのである。
ということは、藤次も花枝も騎馬族なのだろう。
「春……」
千秋は、それを呟いていた。
春一先生、藤次、花枝の名前に、共通するものだ。
「お前……面白い言葉を知ってるな。騎馬族を知らないのに、地史様や香木族の息子のことも知ってたし。訳わかんねぇ」
辛夷が、扱いに困ったように千秋を見る。
「地史様は、春の宮に住んでいたから、騎馬族の味方に、春の名前を与えて使われた。俺も、せめてあと十年早く生まれていたら、その『春組』に絶対入っていたんだがな」
憧れの混じる彼の声より、記憶の中の声が大きかった。
『お前は……我らの側の者だろう? 何故、そちら側にいる』
士郎という男に、千秋はそう言われたことがある。
徳政を探し続ける人間だ。
皮肉なことを、千秋は知った。
地史が春の宮ならば、徳政はきっと秋の宮に住んでいたのだ。
彼もまた、仲間に秋の名を与えたのか。
士郎。
すぐには、気づかなかった。
そうか。
士郎の士の字を分解すると、十一。
彼は、十一の月の名をもらった男だったのである。
十一の月。
それは、この国では、秋の最後の月を指す。
千秋の名前は──先生の敵側の色と同じだったのだ。




