春と秋 6
内股の皮も、尻の皮もめくれて血が出るほど、千秋は馬を走らせた。
どうせ行く道なのだからと、辛夷は西七理へ進みながら、千秋に馬の扱いを叩き込むことにしたのだ。
どうしても馬に乗ると広がってしまう着物の裾は、いっそ開き直って内股の方へと折り込むようにして、鞍や馬肌にあたる部分を少しでも保護することにする。
下半身に力が入らないほどの痛みの中、彼女は馬の上にいた。
彼は、ただの取り引き相手であり、油断のならない相手でもある。
そんな人間の前で、疲れただの痛いだの休みたいだの──先生の前でさえ言わないようなことを言うはずもなかった。
早く馬の扱いを習得して、この男から離れよう。
考えているのは、ただそれだけである。
「お前は、変な女だな」
馬を休ませるために、泉に立ち寄った時、辛夷はそう言ってきた。
この男が、初めて下馬した瞬間でもある。
もし、大きな隙があればと、千秋の頭を掠めなかったのは嘘になる。
しかし、操馬技術の高さも、教え方のうまさも飛びぬけている男で、なおかつ落馬の窮地をすくわれた事実が、彼女の手を鈍らせた。
悪人に対して、善人であるのは阿呆のすることだ。
しかし、この男に悪人という烙印を押しきれないものが、千秋の中にあった。
最初から、この男は仲間の悪さに便乗する気もなかったことが、それを後押ししている。
仲間は置いたままでいいのかと聞いたら、『自力で、どうとでもするだろ』と笑っていたが。
「農民か山の民みたいに見えるが、一箇所に落ち着くようにも見えないし、間者のように任務を背負っている風でもないが、自分のためだけに生きているようにも見えない」
首をひねりながら、こっちをじーっと見てくる。
余計なことは、言う必要はない。
千秋は、黙ったまま馬が水を飲む姿を見た。
「身体中、痛くてしょうがないはずなのに、ひとこともそんなことは口にしねぇ。騎馬族の女くらいだぞ、馬のことで泣き言言わねぇのは」
「その、騎馬族って……何?」
辛夷の彼女に対する感想など、どうでもよかった。
それより、この男と出会ってから何度か出てくる『騎馬族』という言葉の方が、よほど気になる。
この広い国のことを、千秋はほとんど知らない。
自分の住んでいた地域と、先生と一緒に歩いた場所のことを少しだけ知っている程度だ。
これから出会うだろう人間たちのことを、少しでも知っていた方が安全だろう。
「何だ、そりゃ……ほんと、どうして俺はこいつを一瞬でも間者だと思ったんだ」
辛夷は、こらえきれないように笑い出す。
「俺たち騎馬族は、元々北東の悠石の出だ」
説明は始まるが、千秋の頭に地図はないため、どのあたりのことかは分からなかった。
「まあ、俺たちの一族は強くて……元々の皇都なんて、あっという間に蹴散らしちまうほどだったんだぜ」
すらすらと口にされる中に、とんでもないものが含まれていた。
皇都を、蹴散らした?
学の薄い千秋にも、それは物凄いことなのではないかと思えた。
「そこで、新たに皇帝として立ったのが、我らが族長の悠伊様だ。代で言うと、先帝になるな」
しかも、大昔の話なんかではなかった。
ほんのちょっと前の話。
その時に、皇帝の血がまったく別の血にすげ変わったというのだ。
「そんなこと、聞いたこともないわ」
いくら千秋がまだ若いからと言っても、そんな大きな変革があったのならば、何か耳にしたことくらいありそうなものだ。
「俺たちは、面倒なことは嫌いだからな。歯向かう町は踏み潰し、歯向かわない町は、そのまま役人だけすげ変えて統治したんだよ。歯向かわない辺境の町の人間なんかは、皇帝が変わったって気づくはずもねぇ」
お勉強でも、熱心にしてりゃあ、別だろうがな。
付け足された言葉は、千秋にとっては痛いものだ。
こうして、辛夷の口から政治絡みの話を聞いても、ほとんどが身体の中に吸収されない。
土台が弱すぎるせいだ。
しかし、切実に生きていく事だけを考えるなら、どうしても必要というわけではないものだ。
「まあ、その悠伊様の号令で、俺たち騎馬族は東は東疎、西は間奈留までを征服した……すげぇだろ?」
誇り高く語られる言葉は、聞いたことがあった。
町に来ていた遠方の町の物売りの口上が、それだったのだ。
『東は東疎、西は間奈留の果てまで、津々浦々の名品珍品が揃い踏みであるぞ』
見たこともない美しい髪飾りに、複雑に織られた模様の布。
物売りの口上が聞こえると、姉たちにくっついて駆けて行ったのは、懐かしい町の思い出だ。
「そして、今は──様の時代だからな。騎馬族の栄華は、まだまだ続くぜ」
その思い出が、粉々に砕け散る。
たった今、辛夷の口から語られた一言が、千秋の心をねじったのだ。
「何て?」
「ん?」
「いま、何て言ったの?」
千秋は、自分の唇が震えたことに、すぐには気づけなかった。
「騎馬族の栄華か?」
「その前……なんとか様って?」
食いついてきた彼女に、怪訝な表情を浮かべた後、彼はああと口の中で呟く。
「今は、地史様の時代だってところが、どうかしたのか?」
聞き間違いではなかったのだと、千秋は深く理解した。
地史君。
その音は、これまでずっと彼女の心の中にとまっているものだった。
先生の昔話に関わる重要な人の名前。
それが、こんなところで──ふらりと現れてしまったのだ。