春と秋 5
「止まる気はない、か」
何も言わないまま、手綱を持つ手を動かさない千秋の姿に、彼は答えを見出したのだろう。
眉間に皺を刻みながら、馬をすぅっと寄せてきた。
来た。
千載一遇の機会が、彼女の元に訪れた。
いまならば、高さの差は大きくなく、馬から飛び掛って落とす覚悟でいけば何とかなるかもしれな──だが、一瞬で男の馬は接触せんばかりに近づき、千秋の手綱を奪う。
間近にある彼の狭い眉間には、言葉にしがたい迫力が漂っているが、彼女は怯みはしなかった。
手綱を取ったため無防備になった男の脇を狙って、手刀を繰り出そうとしたが、馬の手綱を引かれる方が早かった。
「やめとけ……死ぬぞ」
「……!」
突然の馬の減速に、男の方へと身体を向けていた千秋は、前に振り落とされそうになる。
太ももで強く馬の腹を挟み、とっさに身体を戻して何とか鞍にしがみついて耐えられたのは、これまでの先生の指導の賜物だろう。
その代わり、太ももの皮はひどくすりむけているだろうが。
衝撃が収まる頃には、二頭の馬は仲良く並んで足を止めていた。
次は。
千秋は、考えをやめたりしなかった。
まだ、手足のどれも失ってはいない。
身体の自由が、奪われているわけでもない。
だから、まだ生き抜く好機はきっとあるはずだ。
「もうやめとけ、別にお前を捕まえて役人に突き出したりはしねぇから」
はぁとため息をひとつ落とすと、男はすっかり疲れたように首を回した。
「お前が、間者の類じゃないのはよく分かった。腕っぷしはよさそうだし脚も強いが、馬には乗れねぇし、武器もねぇ。ほんとに、身ひとつの戦い方をしやがるぜ」
だから、暴れんな。
ほらよと、彼は千秋の手綱から手を離した。
彼女は、男の言葉を頭から信用したわけではない。
この世の多くは、利害の関係で出来ている。
例外と言えば、先生くらいのものだ。
その他に、千秋は何の夢も見てはいなかった。
「この先は、騎馬族が強い地域だ。馬で行き来する人間がほとんどだぞ。徒歩で、女ひとりがふらふら歩いていて、無事に通り抜けられるところじゃねぇ」
どうやら、馬は方向を間違わずに走ってくれたようだ。
男の言葉や風景から、千秋は自分が進むべき道を来たことが分かった。
「西七理は、西部では一番騎馬族が多い地域だからな」
更に、彼は彼女の一番聞きたい言葉を口にした。
西七理。
聞いた瞬間、自分でも目の色が変わったのが分かった気がした。
ついに、その名が頬に触れる距離に来たのだ。
後は、本当にこの男と騎馬族たちをどうにかして、町に入るだけである。
「はぁん……お前、西七理に行くつもりなんだな」
男に突っ込まれ、千秋は己の目の色が変わったことを悔やんだ。
修行不足にもほどがある。
先生のように糸目であれば、簡単に人に心を読まれることなどなかったろうに。
やはり、この男は侮れない。
「だから……もうやめとけって。ああもう、面倒くせぇな。分かった分かった、お前みたいのには、『取り引き』とかの方が分かりやすいんだろ?」
千秋の警戒心は、馬の心を読むかのように簡単に男に看破される。
油断をしない手練れを相手にするのは、これほど難しいものだと思い知らされる。
「お前の持ってる金目のものを、全部寄越せ。それで、西七理まで馬で連れてってやる」
これなら、文句はねぇだろ?
男の言葉は、千秋の怪訝を完全には払拭しなかった。
取り引きとは、取り引きが確実に遂行されるという確約がなければ、何の意味もない。
ここで彼女がお金を渡したところで、最後の瞬間に彼が裏切れば、千秋は丸損なのだ。
だが。
千秋は、懐から全財産の巾着を出した。
このお金に、執着があるわけではない。
だが、有効に使うためにはあると思っている。
だからこそ、いまこうして男にそれを差し出して、こう言ったのだ。
「この先の道は、自分の力で行きます。このお金で、馬の乗り方を教えて下さい」
取り引きは、出来るだけ短い期間で終わらせる。
裏切られた時の、被害を最小限にするためだ。
「ああ、なるほどな。そうきたか」
投げられた巾着を無造作に受け取りながら、男はおかしそうに笑みを浮かべた。
「この辛夷様に、馬を習いたいたぁ……お前も、目が高いぜ。分かった、引き受けよう」
取り引きするんだ、お前も名前くらい名乗れよと、辛夷と名乗った男は言う。
そんな彼の挑戦的な瞳に射抜かれながら、千秋は目をそらさなかった。
ここでそらせば、取り引きに無用な傷をつける気がしたのだ。
しかし。
彼女は、別の傷は残した。
「千春……」
本当の名前は──先生に会うまでしまっておくのだ。