春と秋 4
千秋は、次の手を考えなければならなかった。
この男は、年の割に馬の扱いが卓越しているようだ。
でなければ、あれほど跳ね上げられた馬の身から、落ちずにいられるはずがない。
ということは、彼女が馬を奪ったところで、すぐに追いつかれるだろう。
この男も、他の二人のように倒す以外、道はないように思えた。
だが、相手は馬上。
高い位置にいる人間を、下から相手するのは非常に不利だし、触れられるところに一撃で昏倒させるような急所はない。
何とかして、馬から引きずり下ろさなければ。
千秋は、じりと草履で道を踏みしめながら後ずさった。
街道の両側は林になっている。
そこでは、視界も悪くなるし、馬は全力疾走出来ないだろう。
自分を追わせている間に、不意打ちのチャンスもあるのではないか。
もし、追ってこないというのならば、それはそれで今後のことを立て直す時間を与えられたと思うだけだ。
いま、千秋にとって最悪なのは、この男を倒せないこと。
次に悪いのが、この男から逃げられないこと。
突破口は、もはや林しかない。
千秋は、馬上の男が反応を示すより速く、後方に向かって脱兎のごとく駆け出した。
逃げること。
それは、先生が教えてくれた大切なこと。
生き延びるのだ。
先生に、もう一度会うために。
細い木々太い木々を、どんどん後方に押し流しながら、千秋は枯葉を踏みしめて駆け抜けた。
だが。
ああ。
振り返るまでもない。
彼女は、気づいてしまった。
残酷な現実を。
「俺の馬から逃げようなんて、やっぱ百年早ぇ」
まったく減速のかけらもないひづめの音。
木なんて、最初からなかったかのように、男の馬は千秋の前へと回り込んだのだった。
※
右に逃げても、左に逃げても、結局は同じことだった。
男は、馬をまるで身体の一部であるかのように操り、千秋の逃げ道をふさぐ。
くっ。
嬲るつもりなのか、はたまた馬から降りると危ないと思ったのか、男はずっと馬上だった。
打開策を見つけられないまま、千秋は気がつけば再び街道へと戻されている。
彼女は、己が家畜にでもなったかのように思えた。
どれほど抵抗しようと、気づけばこの男に誘導されているのである。
倒せない、徒歩では逃げられない。
体力のある千秋でさえ、もはやぜいぜいと息があがってきた。
こうなったら。
千秋は、街道を駆け出した。
まだ倒れたままの二人の男の側で、二頭の馬はのんきに脇の草を食んでいる。
その一頭の腹に──飛びついたのだ。
突然の衝撃に驚き、大きくいなないた馬が、もう一頭にぶつかり、更にいななかせる。
そのまま、二頭は駆け出した。
千秋を横っ腹に、しがみつかせたまま。
どっちに走っているかなんて、そんなことはどうでもよかった。
少しでもあの男が混乱して、置き去りにした仲間を気にかけてさえくれれば、わずかな距離が稼げるのではないかと思ったのだ。
大きく上下に揺れる馬は、千秋の方にわずかに傾ぎながら駆け続ける。
右手と右足が鞍と馬体にひっかかっているおかげで、何とか落ちずに済んでいるだけ、という無様な状態だ。
風と馬の蹄の音だけを必死に聞いて、彼女はただがむしゃらに生き延びようとしていた。
「おい!」
なのに。
男は、何の驚きも躊躇もしなかったのか。
千秋から見えない背の方から、風を切り裂くような強い声を投げつけてくるではないか。
馬の腕前はやはりさすがで、もう併走されているのだ。
この馬にさえ、うまくまたがることが出来れば、馬上の男に飛びかかれるものを。
そうすれば、逃げ切れるかもしれないのに。
足りない技術が、千秋を悔やませる。
一度だけ、馬に乗る機会があったあの時に、どうしてちゃんと習っておかなかったのか。
そうすれば、今の事態はもっと変わっていたはずだ。
だが。
「いいか? 右手のすぐ上に鞍山がある。何とかそれを掴め!」
風の中、不思議な言葉が耳に届く。
あの男の声であることは、間違いない。
間違いないのだが、千秋を馬から落とそうとするのではなく、助言してくるではないか。
一体、どうなっているのか理解出来なかったが、現状のままではどうせ何も出来はしない。
馬が減速するまでこのままか、力尽きて振り落とされるかの二択である。
千秋は、鞍に引っかかっている右手を見た。
確かにその少し上に、鞍は高くなっている場所がある。
助言通りにするのならば、右手で身体を上に引き上げるようにして一度離し、再度そこを掴むしかない。
掴み損ねたら、地面へ落下は免れないだろう。
迷うことなく、千秋は即決した。
少しでもまだ、腕の力が残っている内に、上を目指すのが得策だと判断したのだ。
「ふっ!」
全身の力を振り絞って、千秋は上を目指して手を伸ばした。
汗で滑りそうになるが、痛いほど強く、彼女は鞍山を掴んだ。
「よし、そのまま右足を引き上げて馬に跨れ」
ジンジンと痛む右手は、まだ楽になったわけではない。
いま、一番高い位置にあり、己の身体を支えている場所である。
それを楽にするために、もうひと頑張りが必要なのだ。
千秋は言葉の通り、右足を馬の背へと何とか回し──ようやく馬に跨ることが出来た。
全身の筋肉が疲労を訴え、呼吸もぜいぜいと見苦しい。
だが、彼女はここで気を抜くわけにはいかなかった。
いくら、男が千秋をあの状況から救ったとは言え、それはそれ、これはこれ、だ。
まだ、何の身の安全の保証も、ありはしない。
「鐙に足をかけろ。手綱を持って、身体を真っ直ぐに立てて、馬の上下の動きに身体を合わせろ。尻の皮を、全部はがされたくないだろ?」
彼女の警戒は、いまの男の興味の対象外のようだ。
微妙な距離で併走させながら、馬上でいまだ視界をゆすられるだけの千秋に、指南を飛ばす。
身体を真っ直ぐ立てていないと、これだけの上下の動きですぐに腰を痛めてしまいかねないことは、前の先生との乗馬で分かってはいた。
尻を何度も鞍に打ちつけながら、千秋はようやく馬に乗っている形を作ることが出来た。
「ゆっくりと手綱を引け。そうしたら、馬は止まる」
そろそろ頃合だと、思ったのだろうか。
男は、ついに停止の言葉を口にした。
千秋は、彼を見る。
男は、手綱から手を離し、腕を組んだままこちらを見ている。
馬は、全て足だけで動かしている状態だ。
本当に素晴らしい操馬技術である。
しかし。
彼女は、こんな状況で止まれと言われて──止まる馬鹿ではなかった。