春と秋 2
「花枝さん……ですか」
千秋は、藤次からの要望に彼女を思い浮かべた。
華やかで妖艶で、そして春一先生を愛している女性だ。
そんな彼女が、欲しいというのだ。
しばらく考えてみた後、千秋は彼へと向き直った。
賭場の外で、無様なケンカが始まったような甲高い男の声が響く中、『どうせ、出来ねぇだろ?』というような藤次の目が、彼女を見ていた。
その目に向かって、千秋は答えを口にした。
「花枝さんの『死体』、でいいですか?」
「はぁぁぁ???」
片方の眉を跳ね上げ、いまにも彼女に食ってかからんばかりの勢いで威嚇された。
だが、千秋は下がらない。
大きな声も怖い顔も脅しの姿勢も、どれも彼女を怖がらせたりしないからだ。
ただ、何が起きてもいいように、心と身体の構えを準備しておくだけ。
「いま、私があなたに差し上げられる花枝さんは、死体しかありません。人の心は、勝手に変えられませんし、騙して連れてきたところで、それでは余計に嫌われるだけでしょうから」
己の思考の流れをたどりながら、千秋は言葉を紡いでいく。
勿論、そんなものを本当に彼女に望んでいないことくらい、ちゃんと分かっている。
だが、簡単に不可能だと言ってしまうと、彼は同じように簡単に千秋をここから蹴飛ばすだろう。
情報を与える価値のない人間として。
千秋はいま、藤次にとって何らかの価値がある人間に、ならなければならないのだ。
この場合は、悪い意味の価値になる。
『あなたが望むならば、愛する人の死体を届けよう』と。
それが、熊の足を思い切り踏みつけることになったとしても、足を踏み出さないわけにはいかないのだ。
「花枝に、傷ひとつつけてみろ……おまえの皮をはいで、春の野郎に送りつけてやる」
低く怒りを帯びた言葉は、千秋の骨さえも震わせる。
その骨の中から、彼女は別の答えを見つけ出した。
「では、その方向でいきましょうか」
千秋は、行き先の町の許可証を藤次へと差し出しながら、頭の中を巡る考えを、うまくまとめようとしたのだった。
「はぁ?」
彼には、何ひとつ伝わってはいないようだった。
※
薄暗い部屋の中。
「藤次、一体何の用だい?」
「まあ、花枝。そうつれなくすんな、これを見てくれ」
襖ひとつ隔てた隣の部屋の声を聞く。
「許可証……これは、西七理の町のだね。一体、これがどうしたの?」
「あのチビが持ってやがった」
「……っ!! これって、まさか春さんが!?」
話しているのは、男と女──藤次と花枝。
「ああ、春の野郎が、あのチビに残していったものらしい」
「何……で。何でさ、藤次!? 春さんは、あの子を捨てたんじゃないのかい? これじゃ、これじゃまるで……」
ガチャンと、磁器の割れる音。
「い、いやよ……あんな小娘に……許さない、絶対に許さないわ」
ヒステリックに高まる声。
その声の中。
すっと。
動き出す。
「許さなくて結構です。ですが、それは返してもらいます」
襖を開け放ち、千秋は即座に部屋に転がり込んだ。
虚を突かれた花枝の手から、許可証を奪い返すや懐に押し込み、彼女は足元に転がっていた磁器の破片を掴んで、彼女の白い喉に当てながら、その身を羽交い絞めにした。
「動かないで下さい」
ぴりと、緊張を込めた声で花枝の後頭部へ呟く。
鼻腔をくすぐる甘い香りは、千秋とは無縁のもの。
美しい女性を脅す彼女は、どれほどひどい悪人に見えるだろう。
「うっ、ぐっ」
強くみじろいで、束縛から逃れようとするが、喉もとの破片が食い込んだのか、口惜しそうに花枝は動きを止めた。
「てめぇ……離しやがれ!」
近づいてくる藤次にも、その破片を喉元で動かして見せるだけで、ぴたりと足を止める。
「ブッ殺すぞ、このチビ。よくも花枝を……」
「あんた……二度と、この町には入れないよ」
重なる二人の脅しの声に、千秋は笑みを浮かべてしまった。
元々、追われる人生を選んだのだ。
更に、二人追加で憎まれても、さしたる重さではないだろう。
しかし、ここに長居する気も必要もなかった。
「そうですね、それじゃあ、さよならです」
花枝の身体を、思い切り藤次に向かって突き飛ばす。
千秋は、もう振り返りはしなかった。
襖と廊下を駆け抜け、猛烈な速度で春屋を飛び出すのだ。
そうしなければ、どちらかにとっつかまえられてしまうだろう。
即興で、磁器の破片を拾ってしまったため、最初の予定より花枝を危険にさらしてしまった。
そのせいで、藤次の目の怒りは、本物になったのだ。
花枝の前で彼が少し男を上げるための、下手な『寸劇』のはずだったというのに。
やはり、彼女のこととなると、冷静ではいられないものなのだろう。
だが、千秋はもう目的は達成した。
この許可証は、花枝が口にしてくれた『西七理』の町のもの。
それさえ分かれば、もはや藤次に寸劇の報酬として、教えてもらう必要もないのだ。
彼が、今回のことで花枝に報われるかどうかは、千秋の心配するところではない。
手早く買い物を済ませ、町の人から西七理の情報を仕入れると、彼女はこの町を、晴れやかに出て行ったのだった。