春と秋 1
千秋が内町の花枝を訪ねたのは、先生がいなくなって半月後のことだった。
いくら許可証があるとは言え、手ぶらで山の人間が町を訪ねるのは、非常に不自然だったからだ。
彼女は、先生のことを考えながら、もう一度町へ行くための支度と、山での生活を一人で続けた。
花枝は、春一がいなくなったと聞くと、衝撃を受けた顔をした直後、盛大に笑い始めた。
花枝の白く美しい頬には、『ざまあみろ』と太字で書いてあり、先生に置いていかれた千秋のことがおかしくて仕方がないようだ。
「藤次さんはどこですか?」
だが、彼女は笑われるためにここに来たのではない。
山小屋を貸してくれた男の居場所を、聞きに来たのである。
「せいぜい、みっともなく追いかけるといいよ」
花枝は、ある意味優しかった。
何の意地悪もせず、藤次のいるところを教えてくれたのだ。
ひどい言葉など、意地悪のうちに入らない。
一礼して春屋を後にすると、籠を背負ったまま、千秋は彼がいるという賭場に向かった。
冬の間、そこで用心棒をしているのだという。
ただ、賭場の通りがあまりよくない。
町の外よりはマシとは言え、それでも町の中では一番悪い人間が集まる場所である。
酒場、賭場、そして──妓楼。
表向き宿屋としている春屋は、高級に入る部類なのだとよくよく思い知らされた。
日当たりが悪く暗い北西の通りは、とても女一人で歩き回れる場所ではない。
素直に教えてくれたわけだ。
花枝の事を思い出しながら、千秋は慎重に歩を進める。
まだ午前中と言うこともあり、ほとんどの人は通りにはいない。
住人の大半が、眠りについているのだと感じられる。
しかし、それでもその辺りの地べたに座っていたり、挙句の果てには眠りこんでいる男もいた。
煙管と酒とおしろいの匂いが入り混じりながら、どこからともなく漂ってくる。
結局、目的の酒場までたどりつくまで、二度絡まれた。
二度とも一人だけだったので、お休みいただいて、そこらに寄りかからせてきたが。
「やっぱ、春に捨てられたか」
藤次は、誰もいない賭場に上がってきた千秋を、大あくびで迎え入れながら、そんなことを言った。
彼女の首など、楽にもぎとれそうなほど大きな手で、着物の中に手を突っ込んでぼりぼりとかきむしっている。
そんな藤次を前に、何からどう言えばいいのだろうかと考えた。
彼女は、とりあえず懐から2枚の紙を出して、藤次へと開いて見せる。
「どういう意味だ……そりゃあ?」
まったく目を細める事なく、彼は二枚の紙を見比べた。
多少の距離があるものの、藤次という男はとても目がいいようで、どちらも文字を目で追い終えている。
あえて目を細めたのは、怪訝のあらわれか。
「先生の、置き土産です」
それは、町に入るための許可証だった。
花枝には、見せなかった。
面倒だったし、見せる必要性もなかったからだ。
ひとつは、この町に入るための許可証。ここに来る時に、持っていたものである。
だが、もうひとつは──違う書式の許可証だった。
許可証は、町ごとに異なる。
なおかつ、どこの町の許可証であるか、その中に実は書いていない。
見ず知らずの人間の手に渡ったとしても、どこの町のものであるか分からなければ悪用のしようがないからだ。
各町の門番や役人だけが、その書式を知っていればいいのである。
先生は、千秋が一人で町に行く時に使ったものとは、違う許可証を一通置いていったのだ。
彼女は、半月の間、山小屋でそれを眺めて暮らした。
先生がいなくなった時、彼が自分の足で出て行ったことについて疑うところはなかった。
小屋はそのままだったし、第一、先生を強制的に連れ出せる人など、この世にいるとは思えなかったのだ。
それならば、千秋は捨てられたのか?
しかし、彼女の手元には、一通のこれが残されていたのだ。
どんな手紙よりも雄弁なそれは、こう千秋に語りかけていた。
『この許可証の町まで、自分の力でおいで』、と。
これは、彼が自分に出した課題なのだと、思うようになった。
あの小屋で、千秋が一人で生きることに問題がなくなったと見て取った先生は、次に一人で旅が出来るようになっているかを試そうとしているのだと。
彼女には、この許可証がどこの町のものかは、まったく分からない。
しかし、ここには二つの手がかりがあった。
ひとつは、さっき会ってきた花枝。
もうひとつは、この藤次。
彼らは、先生と非常に近しい間柄のようである。
特にこの藤次は、彼の上でもなく下でもなく、対等の関係を結んでいるように見えた。
そんな彼ならば、この許可証がどこの町であるか、知っているのではないか。
だから、彼女は闇雲に先生を追いかけることはせず、準備を重ねてここまでたどり着いたのである。
「あー、なるほど、ね」
許可証を見ながら、藤次は大きな身体を震わすような声と息を吐き出す。
それは、とても面白くない色に彩られていた。
「だが、俺にそれを教えてやる義理は、ないぞ」
案の定、返事は色のいいものではない。
親切心では、情報はくれないと言っているのだ。
藤次と先生は対等かもしれないが、千秋と彼は違う。
同じ要領で、取り引きが出来るはずなど、ありはしない。
「それは……金子で買えるものですか?」
千秋は、前回と今回の売り上げの両方を、懐に持っている。
決して大金ではないが、全部合わせれば、少しの贅沢くらいは出来るだろう。
だが、まだ彼女は相手がどんな人間であるか、よく知っているわけではないので、慎重に問いかけたのだ。
しかし。
「金、ねぇ……それより、俺は……花枝が欲しい」
藤次からは、意地の悪い笑みと、金では決して買えない意地の悪い答えが返ってきたのだった。