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千の秋 3

「ぶっ……とばす?」


 思わず、千秋は頓狂な声で返してしまった。


 余りに明るく、しかしひどい内容を聞いたからである。


「そう、ぶっとばす」


 ぎゅっと拳を作って、男はにこにこと笑う。


 彼女は、思わずその拳を見つめた。


 それは、この人がぶっとばしに来てくれるということだろうか、と。


 彼は炭焼き職人のようだが、非常に強い力を持っているように見える。


 本当に間近だった槍から彼女を引きはがして転がしつつ、その穂先をへし折ったのだから。


 糸目の男が本気になったら、少々の相手など本当にぶっとばせそうだ。


「ああ、違うよ」


 千秋の瞳に浮かびかけた、希望のようなものを見て取ったのだろうか。


 彼は、ぱっと自分の拳を解いた。


「拳でぶっとばすのは……」


 にこにこしながら彼は、指でちょいちょいとこちらを指してくる。


 そう、千秋の方を。


 思わず、彼に差されている先を見た。


 それは──自分の右手だった。


 手を開いて閉じて、それからもう一度男の方を見ると、うんうんと頷いている。


「そうそう、ぶっとばすのは……君の拳で、だよ」


 時が止まる、瞬間だった。


 考えたこともないことだったし、出来るとも思えないことだ。


 千秋は、ただの農民の娘に過ぎない。


 村に圧政を強いる屋敷に乗り込んだところで、拳一発当てることも出来ないのは明白だった。


「で、できま……」


「出来るよ。死ぬ気になれば、出来る」


 否定の言葉は、より強い肯定に飲み込まれる。


 はっと、声に引き寄せられるように、彼を見た。


 笑ってはいるが、冗談ではない。


 明るくはあるが、茶化してはいない。


 彼は、本気で言っているのだ。


「ぶっとばし方は……そうだね、僕が教えてあげよう」


 糸目の目を更に糸にしながら、彼は千秋に微笑んでくれた。



 ※



 そこから、千秋と『糸目先生』の付き合いが始まった。


 誰に習ったのだろう。


 糸目先生は、武道の心得があった。


 しかも、自分より大きい者を簡単に転ばせることが出来る、まるで魔法のような技だ。


 千秋は、何度もその身で練習台となり、気づいたら地面にすっ転んでいる羽目となる。


 この技を会得できれば、彼女も大男相手に怯む必要もなくなるかもしれない。


 そんな夢を、千秋は彼の技に見た。


 一度は捨てた命なのだから、血のにじむ努力をすれば、一撃浴びせられるかも、と。


 死ぬのは、その後でも出来る。


 そう彼女は、開き直った。


 のだが。


「うひゃあ!」


 千秋は、奇妙な感触に飛びあがることとなる。


 いつの間にか後ろに回った糸目先生が、千秋の両脇から手を回し、彼女の胸に触っていたからだ。


「せ、先生! 何するんですか!」


 反射的に肘鉄を食らわし、彼から離れながら、着物の前を必死で合わせる。


 どきどきとびくびくで、自分の全身が震えているのが分かった。


 彼もまた、こんな鳥ガラの自分をそういう目で見るのかと衝撃を覚えていたのだ。


 肘鉄を食らったところで、大して効いていない顔の糸目先生は、ふぅとため息をついた。


「君は、男たちの中に乗り込んで行くんだよ。みんな真正面から、正々堂々と戦ってくれるわけないじゃないか」


 正々堂々としか聞こえない明快な声に、千秋は全身で納得した。


 あの無法の男たちであれば、何でもやるに違いない、と。


 彼は、それを千秋に教えようとしてくれているのだ。


 どんな卑怯な手にも、彼女が動じないように。


「わ、分かりました、先生! 疑って済みませんでした!」


 ぎゅっと両の拳を作って、彼女はどんな仕打ちにも耐える決意を、改めてしたのだった。


「あー、いや……その……」


 先生は、何故か少しバツが悪そうに何かを言いかけたが、「さあどうぞ」と、千秋がぺったんこの着物の胸を差し出す様を見て、大笑いを始めてしまう。


「せ、先生?」


 いつものにこにこではなく、ゲラゲラと笑い転げる様は、彼女を唖然とさせた。


「いやいや……悪い悪い。ちょっとふざけすぎたね……まあでも、その意気だよ」


 親指を立てて笑顔を向けられても、千秋には何のことやら分からない。


 はあと曖昧に答えながら、彼女はそれから加わった、先生の性的な嫌がらせにも耐えつつ修行を重ねるのだった。


「おは……よー」


『よー』のタイミングで尻を撫でられる。


 真後ろに立たれるまで、近づいて来ているのに気付かずに、千秋は何度となく尻を撫でさせてしまう。


『おは』という二言葉分の猶予があるにも関わらず、避け切れないのは自分がどんくさいからだろうか。


 こんなことでは、まだまだ男をぶっとばすことなど出来はしない。


 頑張らなきゃ。


 千秋は、夜な夜な修業の流れを頭の中で繰り返しながらも、疲れに耐えかねて、かくりと眠ってしまうのだった。


 そうして何日も過ぎるに従って、彼女は糸目先生のことを心から信じられる人だと分かった。


 彼が本気になれば、彼女の貞操など紙くず同然である。


 なのに、先生はまったく千秋に手を出さなかった──修行の時は別として。


 言われた通りに出来なくても、彼は声を荒げたり怒ったりしない──顔の構造と声のせいかもしれないが。


 ただ、じっくりと粘り強く、そして時々性的な嫌がらせで千秋に悲鳴をあげさせながらも、余り深刻にならないように修業を進めてくれた。


 力技の武道ではない分、人の動きや流れが大事で、とにかく糸目先生と向かい合った。


 先生が、わざと力で押してくる。


 その手をひねり、一回転させて倒すのだ。


 急所の勉強もした。


 手数を少なく、相手を倒す技。


 千秋は、多くの男を同時に相手にしなければならなくなる。


 それを見越して、最低限の力で相手を動けなくさせていくのだ。


 先生は、どうしてこういうことを知っているんだろう。


 それ以前に。


 どうして、自分に教えてくれるんだろう。


 千秋の中に、そんな疑問がふわりと浮かんで、そして消えていく。


 先生のことを知りたいと思ったが、知った先に何かがあるわけでもないことにも気づいてしまったのだ。


 ひどい男をぶっとばせたところで、千秋がそのまま村に残り続けられるわけもない。


 村を出たところで、彼女に行く宛てがあるわけでもない。


 ぶっとばした後、男たちに殺されるか、村を出てのたれ死ぬか。


 結局、最後はそんなものだろう。


 そんな千秋の沈む考えは、長くは続けられない。


 いつの間にか背後に回った先生に、「隙だらけだね」と、太ももを撫で上げられていたからだ。


「ひゃー!」


 どうして、情けない悲鳴が反射的に出てしまうのだろうか。



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