秋冬春 4
走馬灯のように、千秋の脳裏を巡る景色がある。
門番の槍に、飛び込もうとした自分。
そこから、全ては始まった。
彼女にとって、なかったはずの未来が、いま確かにここにある。
あの時、千秋が死んでいたとしたら、ただの骸だった。
花も実もない、本当にただの骸に過ぎなかった。
死の無常を歌える先生が、自分を助けたことは、本当は物凄いことだったのだと身にしみる。
徳政君には──先生のような人が、すぐ側にいなかったのだ。
だから、その人は死んだのではないか。
先生の歌から、千秋はそれを感じていた。
「おのれ……」
再び剣に手をかける士郎の前に、彼女は進み出た。
先生は、ちらとだけ見てくれたが、何も言わないし止めることもない。
「私は、あなたが誰かは知りません。徳政君が、誰かも分かりません」
何も知らない千秋に、線を越える権利がないと言われるのならば、そうかもしれない。
「けれど……あなたは私を殺そうとしたし、またこれから先生を殺そうとするならば……」
だが、その線を越える権利など、千秋はどうして誰かに許可を請わねばならないのか。
彼女には、二本の足がある。
細い足であったとしても、本気で踏み越えたいと思えば、何があったとしても越えられるのだ。
先生を、守る必要などない。
彼は、千秋よりも遥かに強い。
「私は……」
けれど。
これもまた、誰かの許可や必要のあるなしではなく、彼女は本気で先生を守りたいと思った。
そうしたいから、勝手にこうして前に出てきたのだ。
先生にだって。
『誰か』が側にいてもいいではないか。
「私は……あなたを殺します」
彼らが徳政君を失いたくなかったように、千秋もまた同じなのだ。
命と命の奪い合い。
互いの生存と信念を賭けて、千秋は士郎と向かい合った。
『でも……まだ、だれも殺してねぇな』
『まだ、その時ではないようです』
町での藤次とのやりとりが、行き過ぎる。
あの日、千秋は『その時』を決めるのは、先生だと思っていた。
だが、違った。
今日が、千秋が、自分で決めた『その時』
そんな彼女の背中で、先生が笑う。
声を洩らして、本当に愉快そうに笑うのだ。
「だ、そうだ……ここで死んでいくかい?」
頭のすぐ後ろに、先生の声がある。
背中にぴたりと寄り添うように、先生の身体がある。
武術の修行で、大事な身体の形を教える時に、彼はいつもそうした。
千秋が、恥ずかしくて申し訳なくなるほどの近さで、動きの流れを重ねてくるのだ。
「君は……最高だよ、千秋」
耳元で囁かれる、千秋の背筋を震わせるような熱い声。
いまこの瞬間に、一番相応しくないような心の昂り(たかぶり)を、すぐ後ろに感じる。
先生が、ひどく高揚しているように思えた。
「あぁぁああああああ嗚呼!!!!」
士郎の目は、再び狂気の赤に沈み落ち、冬の空気をぶつ斬りにするような、うなりをあげる剣が振り出される。
千秋と、重なっている先生目がけて。
先生の右手は千秋の右手に。
先生の左手は、千秋の腰に。
自分の身体が、まるで先生の傀儡の糸がついているように軽やかに動く。
剣の動きを見てはいたが──気づいたら、よけていた。
先生と背中越しにつながったまま、千秋は剣を軽やかによけた。
彼の手と、触れあっている筋肉の動きが、彼女を導いていく。
いままでの修行で、先生が肌で教えてくれていたことが、花のように開いてゆくのが分かる。
決して、向かい合わない舞踊を、二人で踊っているように思えた。
足を引き、身をひねり、軸足を移動し、息を重ねて、顎をそらす。
剣をかわし続け、隙を探すのだ。
鉄の刃をかいくぐる、ほんのわずかな瞬間を。
あ。
士郎の、肘が上がる。
剣も上がる。
彼がこちらに大きく踏み出し、その懐が完全に開いた瞬間。
とんっ。
指一本。
背中が、押された。
右手も腰も解放され、千秋は一人きりになった。
一人きりで、壮絶な気迫で剣を振りおろそうとする士郎と向かい合うのだ。
いって、きます。
千秋は、右肩を前に出すようにして、まっすぐに彼の懐に飛び込む。
その肩よりもっと前に、強く肘を突き出し、肋骨を巻き込みながら鳩尾に叩きつける。
「ぐ、ほっ!!!」
頭の上で、息と息以外のものが吐き出される音を聞きながら、彼女はまだ持ったままの剣の右手を掴んだ。
世界を、回す。
「ぐあああ!」
彼の体重と勢いがありすぎたためか、叩きつけられた時、男の腕は不自然なまでに下にさがっていた。
肩が、はずれてしまったのかもしれない。
「徳政君……」
息も出来ないほどの衝撃と痛みを受けたであろう身体で、それでも男はその名を絞り出す。
涙と鼻水と血の混じったよだれを流しながら、男は空を見上げるのだ。
「そこまでに……してくれんか」
重々しい声が、千秋の心に滑り込む。
それは、ゆっくりゆっくりと坂を昇ってくる──老人の声だった。