秋冬春 3
「春の、だな」
士郎の先生への言葉は、疑問ではなく決めつけの音。
確認と言うもおこがましいほど、高圧的で厳しい。
目から狂気は、消えきってはいなかった。
その色は、先生の斜め後ろに立つ千秋にも、容赦なくぶつけられる。
彼女は、ゆるりと相手を見つめ返した。
顔や髪や肩には、まだ灰の粒がいくらも残っているが、男はそんなことに気を取られる様子もない。
「春一だよ。この子は千秋……名前くらいは、もう知っているんだろう?」
言葉の刃物を突き付けられながらも、先生は静かだ。
そして、不思議なことを言った。
士郎が──二人の名前を知っているのだと、先生は思っている。
それは、疑問となった。
大して興味のない、疑問の中のひとつに過ぎないが。
先生の名前ならまだしも、本来であれば、千秋の名前など知りようがない。
先生以外で、この辺りで彼女の名を知ってそうな人間と言えば、たった二人しかいないのだ。
藤次と、花枝。
刹那。
『後で見てなさいよ……』
春屋の別れ際に、花枝の言った言葉が頭を掠めた。
ああ、なるほど。
軽くつながった答えに、千秋は満足した。
彼女であれば、この山小屋の場所も、千秋の名も知っていることだろう。
それを、この男に告げることくらい、造作もない。
こんな狂犬のような男を、先生と千秋の元に送ってきたのは、単なる嫌がらせに思えた。
先生が、彼ごときに倒されるはずはない。
運が良ければ千秋だけが、痛い目を見る程度だろう。
それで、きっと花枝には良かったのだ。
千秋という邪魔が、いなくなるかもしれない。
どっちに転んでも、花枝自身に災厄が降りかかる事はないと思ったのか。
理解が出来ると、千秋はすとんと落ち着いた答えを、心の中の棚に置いた。
出来事や人の感情の見本を、陳列するかのように。
「言っておくけど……千秋のことは誤解だよ。どう見ても、若すぎるだろう?」
冬の山風が、首筋をなでる。
ぞくっとする感覚は、風のせいか、先生が彼女のことを語っているせいか。
「くっ……」
ぴくぴくとひきつる頬で、彼女は士郎に睨みつけられる。
若すぎる。
先生や藤次や士郎や花枝。
彼らとは年の違う十六歳の千秋は、先生が軽く引いた線を見た。
千秋はこちら側。
彼らは向こう側にいるのだと、土の上に描かれた一本の線が分ける。
それを越えることに、彼女は何のためらいもないが、どうすれば越えられるのかは分からない。
「これは、偶然か? 皮肉か? 春の! いいや、徳政君の呪いだろう! あの御方が、お前たちを呪っているんだ!」
一言ごとに、士郎は足で地面を踏みつけた。
笑いは歪み、ねじれ、己の首を絞めたような裏返った声になる。
「春一だよ。君は呪いなんか信じているのかい? 迷信深いんだな」
先生は、微笑む。
だが、それは千秋に微笑む時と違うものに見えた。
唇の端が、とがるほど鋭角に広がる笑み。
「お前らは……!」
鋭角と鈍角。
士郎は牛の突進のごとき大声で、山のこだまさえ生み落とした。
「お前らは、徳政君などいなかったことにしたいのだろうが、そうはさせん! 我らは、決してそんなことはさせん! それが生きておられる身か、生きておられた身か、そんなことはどちらでも構わないのだ!」
臓腑を抉るほど低い重低音。
血を吐くような叫びが、千秋の頬をびりびりと震えさせる。
「たとえ生きておられた身であっても、我らは必ず墓を作る! 大きく立派な墓を作る! あの御方が、この世に生まれい出て、この地を歩き、この天を見上げられた御方であることを、永遠に残すのだ!」
士郎はおかしくひずむ声の中に、多くの違和感を練り込んでいた。
彼の言葉には、『身』がない。
徳政君なるものの『身』が、そこには入っていないのだ。
生きているかいないかさえ、まるで士郎は知らないかのように見える。
この二人の間に何が起きたのか、千秋に分かるはずはない。
だが、士郎の言葉の裏から溢れ出す言葉が、聞こえてきた気がした。
返せ、と。
『徳政君を、返せ』、と。
生きている身か屍か、どちらでも構わぬから『我ら』に返せ。
そう訴えている先は──先生。
もしかしたら、その先は花枝だったのかもしれない。
彼らは、春屋にいたのだから。
春屋で、彼らは何も得られなかった。
だから。
ここに来た。
花枝に何かを吹き込まれ、踊らされて。
くすりと、先生は笑った。
冬の風ではなく、彼の名前の通りの春風のような柔らかい笑みが、そこに浮かんだのだ。
「死んでしまったら……ただの終わりだよ。天も地もない。花も実もない。美しさも悲壮さもない。大きな墓などあったところで……何にもなりはしない」
歌の、ように聞こえた。
それは──先生が歌う、無常の死の歌だった。