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秋冬春 2

 千秋は、最初から士郎を倒そうなどと思ってはいなかった。


 剣を握る姿は堂に入っていて、殺気みなぎらせて心は乱れているが、剣技が骨身にしみ込んでいるのは想像が出来たのだ。


 そんな相手に、迂闊に近寄ることなど出来るはずがなかった。


 千秋が打ち倒すには、必ず相手に触れなければならない。


 油断のない今の相手では、とてもそれが叶うとは思わなかったのだ。


 だから、千秋は囲炉裏端へ走り上がった。


 士郎は、猛然たる気をまき散らしながら、彼女を追ってくる。


 その感触は痛いほど首筋に感じるが、出入り口から飛び出すための突破口が、千秋には必要だったのだ。


 男の足と、剣の長さ──そして、広くはないこの小屋の中で、彼女が必要なものは。


 時間、だった。


 千秋は、囲炉裏のすぐ脇に飛び込むように前転した。


 真後ろで、剣が振り下ろされる感覚が、彼女にそうさせたのだ。


 転がりながら、火の方へ手を伸ばす。


 熱い囲炉裏の灰を握りこむや、転がる自分を止めて身をひねった。


 空振りした剣を、そのまま下からこちらへ振り出そうとする彼の顔めがけて投げつける。


 ぱっと、灰色の霧が小屋の中に広がった。


 激しく咳き込み、動きを止めた士郎を、千秋は構うことなく置き去りにして小屋を飛び出す。


 草履をはいたままだったので、無駄な時間ひとつ使わず、彼女はそのまま山手に向かって走り続けた。


 ここしばらくの暮らしで、慣れた山だ。


 剣の使いづらい竹林の場所も知っているし、身を隠せる場所も分かる。


 更に。


 山にはいま──先生がいるのだ。


「おや?」


 後方に追手の気配を感じることもなく、千秋が走る足を緩めかけた時。


 左上方から、不思議そうな声があがった。


 木々の植わる斜面の上に、誰かが立っている。


 木の影が作りだす暗さのせいで顔は見えないが、千秋がその声や姿の形を見間違うはずもない。


「先生!」


 ほっと、した。


 張りつめていた緊張が、一瞬にしてほぐれ、千秋はぜいぜいと荒い息を繰り返しながらも、ようやく肩の力を抜くことが出来たのだった。



 ※



 斜面から下りてきた糸目先生は、右手に兎を二羽握っていた。


 まだ、平静に戻りきらない息を繰り返す千秋の前に立つと、彼はもう片方の手を伸ばす。


「灰だらけだよ」


 そして、彼女の頭を軽くはたいてくれた。


 囲炉裏端で暴れていた時に、千秋もかぶったのだろう。


 顔の前を灰が舞って、彼女はひとつ大きなくしゃみをしてしまった。


 どう、話そう。何から話そう。


 千秋は鼓動と呼吸を落ちつかせながら、先生に伝える言葉を探そうとした。


 あんまり一気に安心しすぎて、もう先ほど起きたことなどどうでもよくなりかけていたのだ。


 何とか、逃げることが出来た。


 彼女にとっては、その事実だけが大事なことだったのである。


「ええと……さっき、小屋に、春屋で殴り倒した男が来て、剣を抜いたので逃げて来ました」


 いつ、どこで、誰が、どうした。


 事実を伝える時に、一番単純なものだけを、千秋は選んだ。


 味付けや調理をする前の、生の素材だ。


「私のことを裏切り者と言って襲って来ました」


 その素材に、唐辛子を振りかける。


 理不尽な、激辛の味付け。


 だが、先生は表情を険しくすることはなかった。


 それどころか、嬉しそうに笑みを浮かべて、もう一度千秋の頭に手を乗せてくれた。


 今度は、灰をはたくのではなく、ぽんぽんと軽く撫でる動き。


「君は、賢いね」


 先生の短いほめ言葉は、千秋の頬を緩ませた。


 生きている、と感じるのだ。


 このささやかな言葉を甘受する瞬間、生きていることは幸福なのだと痛感する。


 どんな辛く痛い日々が続いたとしても、その先にこの感覚があるのならば、千秋はきっと耐えられるだろう。


 先生のことが、好きで好きでたまらないと、心の底から実感する。


 本当にもう、士郎のことなどどうでもよくなっていた。


「じゃあ、小屋に行こうか」


 だが、先生はあの場所へ戻るつもりだ。


「はい」


 それならば、千秋が拒む気など起きようもなかった。


 あの小屋に、恐怖は置いて来ていない。


 だから、彼女は先生と、足取り軽くそこへ戻ることが出来たのだ。


 士郎は、まだ小屋に残っていた。


 自分が蹴り倒した戸も元に戻さないまま、入口に突っ立ってこちらを睨みつけている。


 少しは頭が冷えたのか、剣は腰におさまったままだった。


 そんな男の方ではなく。


 先生は足を止めて、千秋を見た。


「ここで待っているかい?」


 優しい、顔。


 千秋が最初に、彼のことを菩薩と間違ったことを思い出す。


 心が深く、そこに抱かれたいと思うような、穏やかで温かな表情だ。


 彼と士郎の場に同席をするということは、先生の過去の話と関係あるのだろう。


 僕の過去に触れるかい?──先生は、そう聞いているのだ。


「一緒に行きたいです」


 千秋も、士郎の方など見ることはなかった。


 ただ、まっすぐに先生を見つめ返す。


 彼は。


 にこりと、笑った。


「行こうか」


 そして、背中を軽く押してくれた。




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