秋冬春 1
それは──先生が山に入っている時に起きた。
千秋は、自分の投網を補修する為に、囲炉裏の側で草をなうという、暖かくて楽な仕事の最中だった。
ドンドンと、木戸が叩かれる。
こんな山小屋に来客かと、千秋は怪訝に思った。
彼女の脳裏に藤次が思い浮かんだが、果たして彼がこんな風に戸を叩くだろうか。
もし彼ならば、さっさと戸を開けるか、大声で自分の到来を告げそうな気がした。
他に思い浮かんだのは、花枝。
勿論、他の候補も考えた。
軍の追手や、その他の無関係な人が偶然立ち寄った、など。
「どなたですか?」
草履を履き軽く身構えながら、千秋は静かに問いかけた。
「士郎と言う。話があってきた」
隙間だらけの戸は、はっきりと相手の声を伝えてくれる。
声が、若い男であること。
そして。
その声を、千秋が聞いたことがあるということ。
それらを合わせた結果、余りいい予感はしなかった。
何故なら、その声の主は──千秋が、ふもとの町の春屋で、こめかみに一撃入れて昏倒させた男のものだったのだから。
春屋の一室で、女もはべらせることなく、老人と向かい合っていた男だ。髪を高い位置で結び、剣を側に置いていた。
その男の口から出てきた、『徳政君』という、誰かの名。
千秋に向けられた、狂気的な目。
正直に言えば、この戸を開けたくなかった。
だが、この小屋は、出入り口はひとつしかないので、そこをおさえられると千秋が閉じ込められてしまう。
前回は、完全な不意打ちが出来たが、既にそれを食らった相手である。
今度は、ほんのわずかも油断することなく、千秋の前に立つだろう。
訪問意図も不明だ。
こちら側に、士郎という男と話す事はない。
千秋に思い浮かぶところと言えば、前回のあの事件についてだが、その報復であるというのならば、尚更中に入れるのは馬鹿げたことだった。
とりあえず、訪問意図を探ろうと千秋は思案を巡らせて、こう言った。
「先生に用事でしたら……いま出かけられていていません」
「先生? いや……私が用事があるのは、お前だ」
だが、相手の答えは、ひとつの可能性を簡単に消してしまう。
「私の方に……用事はありませんが」
ゆっくりと、言葉を練り上げる。
「お前は……我らの側の者だろう? 何故、そちら側にいる」
少しの苛立ちが、戸の向こうから感じられた。
理解の出来ない言葉と共に。
前にもこの男は、『我ら』という言葉を使っていた。
そんなものの中に、何故千秋が入っているのか。
士郎という男の顔も声も名前も、これまで彼女の人生の中にひとかけらだって入っていなかった。
内町生まれ外村育ち、単なる貧農の娘である。
「我ら、徳政君をお守りする人間であるはずのお前が、どうしてそちら側に!」
声が、震える。
この男は、どうにも徳政君なる者の話をし始めると、我を忘れる傾向にある。
それは、前回の春屋で思い知っていた。
緊張感が、全身を走った。
「私は、先生の側の人間です。他の側なんて知りません」
彼の勘違いを否定するやいなや──彼女は、後方へ飛び下がらなければならなかった。
ぐわんとたわんだ空気。
戸の向こう側で、士郎という男の気が大きく変動したのだ。
戸は、なくなった。
ただの戸板一枚の、仕切りである。
少々建てつけは悪いが、横に引けば簡単に開く。
なのに、この男は。
戸を蹴り開けたのである。
小屋の内側に倒れるそれより遠くに、千秋はさがらなければならなかったのだ。
男の目が、光る。
怒りと狂気と悲しみに震える目。
「裏切り者が」
もはや。
こうなった男が、千秋の言葉を聞くことはあるまい。
彼自身の中に渦巻く感情のみに、突き動かされているのだ。
入口に立ちふさがる士郎。
その腰には、使いこまれた剣。
それが、大きな手によってすらりと抜き払われる。
分が悪いのは、最初から分かっている。
だが、こんな日がいつか来るはずだった。
盗賊にせよ、軍人にせよ、千秋が一人で対峙せねばならぬ日が、いつか必ず来る。
たまたま、今回相手が一人だけ。
これを、幸運と思うのだ。
彼女は、そう自分に言い聞かせた。
たった一人を相手に、その訓練が出来るのだから。
千秋は、ひとつだけ呼吸をして、心と身体に新しい気を入れる。
そして──草履のまま、囲炉裏端目がけて駆け出したのだった。