みっつ目の自分 11
春屋の納屋で迎える朝は、冷たくやってくる。
千秋が目を覚ました時、既に先生はいなかったのだ。
納屋から出ると、先生は諸肌脱いで井戸のところにいるのが見えた。
顔でも洗っていたのだろう。
息が真っ白な冬の朝だというのに、寒さをまったく感じているようには見えない。
傷だらけの背中ごしに、先生はこちらを振り返った。
「おはよう」
「おはようございます」
穏やかな表情とは裏腹の背中。
気にならないといえば、大嘘になる。
聞けば、きっと先生は答えてくれるだろう。
だが、それは痛い過去の話でもあるのだ。
その痛みさえ、先生は糸目のまま笑いながら語ってくれるに違いない。
それを受け止めるに値する人間になれたとは、まだ千秋は思えなかった。
地史君とやらを、羨むしか出来ない立場なのだから。
そんな彼女の心の流れなど、さすがの先生にも伝わることはないのだろう。
「手に薬を塗ってるから、僕が顔を拭いてあげよう」
井戸からくみ上げた桶に、先生は手ぬぐいを浸しながら意外な言葉を投げてくるではないか。
「え? いえ、自分で」
先生に顔を拭いてもらうなんて、子供のようではないか。
断ろうとするものの、先生は千秋の腰に手を回して逃げないようにしながら、絞り上げた手ぬぐいを顔に近づけてくる。
ひゃああ。
他の男にされるなら投げ飛ばすような体勢のまま、千秋は彼のされるがままだった。
冷たい手ぬぐいが、すぐ温かくなってしまいそうなほど、自分の顔が熱く感じられる。
は、恥ずかしい。
羞恥的な状況に、これ以上は耐えられないと思った時、ようやくにして手ぬぐいは千秋から離れていった。
先生の手も、腰から離される。
「帰ったら、獣を狩って皮をなめそうか。皮を扱えるようになれば、自分で防寒具も作れるだろうしね」
先生は、千秋の手をちらりと見てそう言った。
恥ずかしさが、一瞬で吹き飛ぶ言葉だ。
代わりに、嬉しくてしょうがなくなった。
先生が、自分の手を気遣ってくれたことも、確かに嬉しい。
だが、その気遣い方が、多少時間はかかるものの、あくまでも千秋のためになる方法だったからだ。
またひとつ、先生から知識や技術を習得できる。
今日、千秋に手袋を買い与えたところで、来年の冬にはつながらない。
だが、邪魔になることのない知識や技術は、きっと来年の冬に千秋を助けることになるのだ。
「はい!」
千秋の喜んだ顔に、満足したのだろうか。
先生は、軽くひとつ頷くと、ようやく上半身を着物の中に押し込めた。
「そういえば…」
先生は、今度は自分の手を見つめて呟く。
彼の手が、どうかしたのだろうかと、千秋も覗き込もうとすると。
「君も、少しは成長してきたみたいだね」
そんな手を、何かの感触を思い出すかのように、先生がさする動きをして見せる。
「……!!」
ついさっき、その手が腰に回されていたことを思い出し、千秋はまた赤くなりそうになった。
子供扱いされているのか、大人扱いされているのか、彼女にはよく分からなくなる。
でも、それが先生らしい扱いなのだろう。
そこに、情はあっても色気はない。
それは、きっと。
千秋が──まだ『みっつ目』の自分になれていないからだ。
そのみっつ目の扉の向こうに何があるのかは、扉を越えてみないと分かるはずなどない。
いまはただ、先生の思うままに扱われるしか出来ないのだから。
「さあ、朝ご飯を頂いて帰ろうか」
そして。
自分を想っている女性を、昨夜あれほど見事に袖にしたにも関わらず、朝ご飯までしっかり頂いていくつもりのようだ。
それに対して、千秋が何か思うのも余計なことだろう。
先生がするというのだから、出来ることなのだ。
「はい、いただきます」
おかげで、花枝の痛い視線を受けながらも、千秋は温かくもおいしい朝ごはんにありつくことが出来た。
「後で見てなさいよ……」
別れ際。
花枝に呪いの言葉を残された。
しかし、千秋は何事もなかったことにして、先生と山へ帰ったのだった。
彼女の言葉より大事なことが、千秋には山ほどあったのだから──
『みっつ目の自分編 終』