みっつ目の自分 10
千秋は、もう厨には戻らなかった。
そのままの足で、先生のいる花枝の部屋に戻る。
だが、その部屋の襖を開ける前に、立ち止まる羽目となった。
「ねーぇ……春さん」
しなだれかかる甘い声が、部屋の中から聞こえてきたからだ。
間違いなく、花枝の声だった。
「今夜は、私は誰とも約束を入れていないわ……春さんの、た、め、に」
女が、男を誘う声だ。
千秋は、何かを考えようとしたが、何を考えたらいいのかということから分からなかった。
男と女の機微のことなど、経験もない小娘である彼女の頭では、とても対応出来るものではない。
先生が何と答えるのか。
それを待つので、精一杯というていたらくだ。
「そうだなぁ……」
先生は、心ここにあらずという風で、まともに彼女の声を取り合っている様子はない。
「春さんは、何もしなくていいのよ……気持ちよくしてあげる」
「千秋が帰ってくるんじゃないかな」
自分の名前が、先生の口から出て来て、どきっとする。
「さあ、それはどうかしら……いい男に、ふらふらついてったから、朝まで帰ってこないかもしれないわね」
そんな千秋の心に、冷や水をぶっかける花枝の言葉が飛んだ次の瞬間。
先生が、くすっと笑った音がした。
そのまま、くすくすくすくすと笑い続けている。
「春さん?」
「いやだって……もうそこに帰ってきてるよ、千秋」
声が。
こっちを向く。
千秋は、にこっとした。
さすがは、先生だ、と。
「えっ!?」
急いで近づいてくる足音と、乱暴に開けられる襖。
千秋は、目の前に鬼のような形相で立つ花枝を見た。
結果的に、彼女は花枝に向かってにこっとしていたこととなる。
そんな顔のまま。
「お膳を置いて、若い方をぶん殴ってきましたけど……よかったですよね?」
彼女に頼まれた、仕事の報告をしたのだった。
※
先生は、ただけらけらと笑っていた。
千秋の報告で、花枝がすっ飛んでいった後ろ姿が、おかしくてしょうがないように。
「褥にでも、行かされたのかい?」
楽しそうな先生の問いに、千秋は首を傾げた。
言葉にされている内容は、とても楽しいものではないはずだが。
彼女は、さっき起きたことを、きちんと理解しているわけではなかった。
それどころか、分からないことだらけだ。
「徳政君が、何とかっていう男の人たちがいて……おかしかったので殴って帰ってきました」
とりあえず、起きたことの断片をかいつまんで話すと、先生の笑い声が消えた。
目は糸目のままだし、唇も笑った形をしているが、そこからはもう音は出ていない。
「何かされたかい?」
もはや、千秋には宴会から洩れて来る音など、届いてはいない。
先生の声だけに、耳を支配される。
「袖を引っ張られました」
「身の危険を感じたから殴ったんだろう?」
千秋が、むやみに暴力を振るう人間ではないことを、先生は知っている。
だから、こんなに何の疑いもなく確信に満ちた声を向けてくれるのだ。
「そうですね、多分素直に倒れていたら危なかったと思います」
身の危険を感じたからこそ、彼女はとっさに反撃してしまった。
「君の、そういう強さはいいね」
先生のその言葉が終わると、遠かった周囲の雑音が戻って来る。
彼がまとっていた雑音を寄せ付けない雰囲気が、すぅっと引いて行ったのだ。
いつもの先生に戻ったのだと、肌で伝わってくる。
そういう強さ。
おそらく、それは殴り倒したことそのものについての評価では、ないのだろう。
身の危険を感じて、きちんと判断できた事について、だろうか。
ささやかな褒め言葉でも、千秋には嬉しいことだった。
「じゃあ、行こうか」
先生は、ゆったりと立ち上がる。
あれ?
千秋は、違和感を覚えてまばたきをした。
今日は、ここに泊まるんじゃなかっただろうか、と。
こんな夜遅く、一体どこへ行く気なのか。
「確か、納屋に泊めてもらえるんだろう?」
あくびをひとつ洩らしながら、先生はすたすたと歩いて行く。
確かに、花枝は納屋に泊めてくれると言った。
しかし、それは千秋が泊まる場所であって、先生が泊まる場所ではない。
彼女は、この部屋で一緒に寝ようと思っていたようだ。
だが、千秋は反論はしなかった。
花枝の希望など、先生は最初からちゃんと理解している。
その上で、納屋で寝ると言っているのだ。
「はい」
千秋は嬉しかったが、同時に花枝の不遇を己の骨身に染みいらせもした。
みっつ目の自分になれなければ、彼女もいつか先生にこういう扱いをされてしまうのだと。
べたべたするあかぎれの薬を指に塗りつけて、千秋は先生と冷たい足をくっつけ合って眠った。