みっつ目の自分 9
夜の春屋は、盛況だった。
あちこちで、飲めや歌えの騒ぎが聞こえてくる。
戦場のような厨から、次々料理が運び出される。
これならば、千秋の売った鴨も残ることはないだろう。
男向けの宿屋と聞いていたが、千秋の少ない知識から想像していたものとは違い、宴会場としても利用されているように見えた。
勿論、客に女はいないのだが。
美しく着飾った花枝も忙しいらしく、彼女の部屋で先生と鴨料理を頂いたが、その間に何度か顔を出すだけにとどまった。
口惜しそうに、何度も嫉妬の視線を投げられたが。
もはや、千秋にとって彼女は何の意味もない人となった。
花枝が先生を思う、一途過ぎる気持ちを少し羨ましくは思ったが、彼女のようになりたいわけではないのだと、自分の中でおさまりがついたからだ。
それは、花枝にとっては憤慨すべきものだろう。
少なくとも、千秋は彼女を目標にする気はなく、完全に興味を失ったのだから。
それについて、罪悪感などあるはずがない。
人の心は、不公平なものなのだ。
好きな人と嫌いな人の間に、星の数ほどのどうでもいい人たちが流れて行く。
花枝が、決して千秋を好きになれないように、千秋は彼女のことをどうでもいい人たちとして星の川に流した。
その取捨選択を、残酷だと感じたことはない。
同様に、千秋もまた、誰かに川に流されているのだろうから。
先生と旅をしている間に、彼女はいろいろなものを整理出来ている気がした。
心の中の部屋。
その中に、余り無駄な物を置かず、いつもすっきりとしているように。
勿論、いまその部屋の真ん中には、先生が目を糸にしたまま座っているのだが。
「ちょっと、泊めてあげるんだから手伝いなさいよ」
自分が忙しいのに、千秋が座っているのが憎らしくなったのだろうか。
やっと顔を出したかと思うと、花枝は千秋を強引にひっ立てた。
「僕も手伝おうか?」
「やだ、春さんはそのままゆっくりしてて、女の仕事だから」
次いで立とうとした先生を、彼女は猫撫で声で押しとどめる。
その後の彼の反応など、千秋には見られなかった。
強すぎる力が、彼女を厨へと引っ張っていったのだから。
「これを、前のあの娘について一緒に運んで」
立派なお膳を、ぐいと押しつけられる。
明らかに、上客向けの食器や料理だと伺い知れた。
好きで泊まることになったわけではないが、一宿一飯の義理はあるので、彼女はそれに従うことにした。
板張りの廊下をぺたぺた踏んで、階段を上がる。
前を歩く娘は、後ろにいる手伝いが誰であろうが気にもしないようで、振り返りもせずに歩いていく。
部屋までたどりついたのはいいが、目的の部屋にふすまを開けて入っていく前の娘についていくのは憚られた。
彼女は、ここの正式は働き手ではない。
他の娘たちは、年齢別か仕事別か分からないが、区分けされた色の着物を着ていて、一目でここの人間であることは分かるようにしてある。
しかし、先生のおまけでここに泊まることになった千秋は、前に買ってもらった山吹色の着物姿で、あきらかに浮いているのだ。
お膳を持ったまま廊下で待っていると、娘はさっさと自分の仕事を終えて部屋から出て来た挙句、千秋のことをちらりとも見ずに戻り始めた。
これは、入らざるを得ないようである。
農作業や山での作業は身についていても、こんな接客業などやったことがあるはずもなく、さっきの娘のやり方を真似るしかない。
ぺこりとお辞儀をして、千秋は座敷へと足を踏み入れる。
男が二人。
向かい合って座っている。
一人は若めで、もう一人は老人のようだ。老人は、どこかの店のご隠居風。男の方は、高い位置で長めの髪をきつく結んでいる。脇に剣が鞘ごと置いてあるのを、千秋は目の端で一瞬だけ確認した。
女は誰もはべらせてはおらず、陽気に語り合ってもいない。
そんな重めの空気の中で、膳の置かれていない若い方の男の前に、抱えて来たそれを置こうとした。
「おい、女……お前、ここの者じゃないな」
だが、その男は鋭く咎める声を千秋に向ける。
ほら、やっぱり。
心配していた通りの事が、起きてしまったではないか。
「今だけの手伝いです」
油断なく睨まれる気配に、千秋は静かに答えた。
この人たちには、何か後ろ暗いことでもあるのかもしれない。
でなければ、多少着物の違う彼女に、これほど警戒する必要などないのだから。
「何処の区の者だ。名前は?」
袖を掴まれ、詰問された。
袖を掴んでいるのは、答える前に逃げるのを止めるためか。
少なくとも、疑いが晴れるまでは逃がさないと言わんばかりだ。
町の中が区分けされていることは、町出身の千秋は知っている。
しかし、この町の人間ではない彼女には、区などあるはずがない。
この剣幕では、ほんの少しでも嘘をつき、それがバレれば面倒なことになりそうだ。
「鴨を売りに山から来ました。春屋さんには贔屓にしてもらっていますので、泊めてもらう御礼に、今日だけ手伝いをしています」
馬鹿正直から、馬鹿だけ抜いて千秋は言葉にした。
これまで長いこと春屋と付き合いがあるように匂わせたのは、少しでも疑いを薄めるため。
「山……外の人間か。それにしては、脅えていないな」
男は、なお強く千秋の袖を掴む。
彼女の静かな態度に、更に疑いが増したのだろう。
千秋は──ふぅとため息をついた。
この面倒な客のところに、たまたま彼女が送られたとは考えにくかった。
お膳を見た時から、もっと疑うべきだったのだ。
上客の部屋に、何故不慣れな千秋を向かわせたのか。
花枝は、彼女を面倒に巻き込もうと思ったのだろう。
後ろ暗い人のところに、使用人とは違う姿の娘を放り込むとどうなるか。
その結果が、まさにいまなのだから。
「私のことは、この店の花枝さんがご存知です。疑いになられるなら、ここで待ちますので、花枝さんを呼んでいただければ良いでしょう」
自分がここで、どれほどの真実や嘘を積み重ねたところで、疑いでいっぱいのこの男の心が晴れるはずなどない。
そんな無駄なことをするくらいなら、元凶である花枝を引きずり出し、彼女に釈明させた方がよほどマシだろう。
「花枝……この店の女主人か」
その時、一瞬だけ音が止まった気がした。
男は老人を見て、老人もしばし何も言わなかったからだ。
ただ、奇妙な空気が流れた。
「意趣返しであろう……でなければ、見るからに場違いな娘を送ってくるはずなどないのだからな」
その老いた唇が、ゆるゆると重い言葉を落として行く。
一言ごとに、ゴツゴツと音を立てそうなほど。
「我らは……我らはただ……」
千秋の袖を掴んでいる手が、声と共に微かに震えた。
この若い男が、泣き出してしまうのではないかと思えるほど、それは強く悲しい震えだったのだ。
だが。
「もはや……我慢なりません。我らはただ、徳政君の!」
「よさんか!」
老人の制止は、若者の耳には届いていない。
目は、狂気的なほどにギラつき、千秋を呪い殺そうとしている。
袖が、ちぎれんばかりに強く引かれた。
その刹那。
千秋は、袖だけをくれてやった。
その代わり、腕を片肌脱ぐ形で袷から引き抜くや、男のこめかみに真横から肘を入れたのだ。
襦袢も着ていないため、片肌を脱ぐということは、片方の乳房を露わにするということだ。
予想外の位置からこめかみを打ちつけられ昏倒した男から、千秋はようやく袖を取り返すと、見せるに憚られる身体を再び着物の中にしまった。
「失礼します」
茫然としている老人を前に一礼だけして、千秋はその部屋を出た。
後のことなど──知ったことではなかった。