千の秋 2
「ありがとう……ございます」
千秋は、おそるおそる礼を言った。
山の中腹にある炭焼き小屋らしき粗末な家は、建てられている場所こそ違え、自分の家を彷彿とさせる。
煮炊きに使われるだろう囲炉裏に火が入れられると、疲れきった身体がほっとするのが分かる。
「お礼なら、もう何度も聞いたから、もういいよ」
桶の水を鍋に入れ、糸目の男はそれを囲炉裏へと吊るす。
黒髪は、少しあせたような色。それをただ、適当に短く切っている無造作な髪だ。帯にからげている着物は、古くはあるものの汚れてはおらず、きちんと手を入れてある。
貧していても、窮しているわけではない、というのが、その様相や所作から分かった。
『あの時』は、大きく見えた背中だったが、実はそんなに大きくなかったのだと、千秋は今更ながらに気づいた。あの壁のような門番よりも、遥かに小さかったのだ。
『あの時』──門の前で大立ち回りをしでかしてしまった彼と千秋は、すぐさま門番に取り押さえられそうになり、慌てて逃げ出した。
千秋が逃げたというよりは、この男に手を引っ張られ、付き合わされたと言った方がいいか。
いざ、町から離れてしまうと、千秋は途方に暮れてしまった。
目的を果たすことも出来ず、死ぬことも出来ず、不完全燃焼の怒りの行き先はどこにもなくて、本当に生きた屍のように突っ立ってしまったのである。
そんな千秋の頭に、糸目の男はぽんぽんと手を置いてくれた。
「とりあえず、僕の家に行こうか」
魂が抜けたままの彼女の手を、炭を背負った男が引っ張って行ってくれる。
きっと、彼は町へ炭を売りに来たのだろう。
町だけでは賄えない商品を売る者は、町に入る許可証を得ることが出来る。
おそらく、彼はそれを持っていたに違いない。
なのに、千秋の無謀な事に飛び込んできてしまったせいであんなことになり、しばらくは町への出入りは出来ないだろう。
とぼとぼと手を引かれて歩きながら、少しずつ正気に戻ってきた千秋は、目の前の男に申し訳ない思いでいっぱいになった。
「どうして……止めたんですか?」
助けてもらって余計なお世話と言いたくはなかったが、結果的には男にとっても千秋にとっても良い結果にはなってないように思えた。
「言っただろう? 怒りの使い方を間違えてるって……あそこで君が、怒りに任せて死んだって、ただの犬死にじゃないか」
握られた手に、少し力がこもった。
背はそれほど大きい訳ではないが、男の手は大きく、そして温かだ。
悪い人ではないのだろう。
いや、きっといい人だからこそ、無謀な千秋を身体を張って止めてくれたに違いない。
ただの犬死に。
それは、心のどこかで分かっていた。
自分の死など、あの軍人たちの心を動かす材料にはなりはしないのだ。
もう片方の手に握った父の手紙を、千秋はもっとぎゅうっと握りしめた。
「10年くらい前から、外村がたくさん作られ始めたんです」
千秋は、炭の背に向かって呟いていた。
彼の背は、俗世の人のように思えなかったのだ。
貧しい者も助けてくれる、聖人か菩薩の化身ではないかと。
「新しく土地を開墾して田畑に変える。開墾した者に土地は与えるということで、内町に住んでいた次男坊の父は、喜んでその外村作りに参加しました」
千秋が、小さい頃の事だ。
内町に人が増えすぎ、食料の自給が困難になってきたため、国はその両方を同時に解消するべく政策を立てた。
内町の人手を外に出し、彼らに農地を作らせるという方法だ。
ただで土地が手に入る。
それは、跡を継げない次男以降の男たちの、心を動かすものがあったようだ。
家族を連れて彼らは外に出て、苦労して苦労して田畑を開墾し、そしてそこに作物を実らせるに至った。
だが、政策には無責任な部分があった。
国は、新たに開墾した田畑から、面積に応じての一定の税金を取り立てることのみにしか興味がなかったのだ。
新たに出来た外村の秩序や治安は、全て地方の権力者を村長に据えて、彼らに任せたのである。
確かに、土地はそれぞれの者に与えられたが、同時に村長は重税も課した。
とても、家族が食べて行けないほどの税の重さだ。
外の村は壁に囲まれていないため、人々を守るために強い者を雇わなければならないという理屈で、国のものとは別に税を徴収したせいである。
雇われた荒くれ者たちは、治安を守ると同時に、彼ら自身が治安を乱す種となり、ちょっとでも逆らう家があれば、ひどい目にあわされることとなった。
更に、農民の足元を見るかのように、こう言い放ったのだ。
『税金が納められない者は、娘を納めよ。娘を納めた者は、向こう2年の税を減免してやろう』
農民たちは、怒り狂った。
反乱を企てた。
だが、彼らはそれを予見していたのか、『不穏な動きをしている輩について報告した者も、1年の税を減免してやる』とも言ったのである。
そのせいで、他の村人を売る者が出た。
元々、開墾のために集まった者たちであり、古くからの付き合いがあるわけではなく、一枚岩ではないところを狙われたのだ。
こうして、村は横のつながりも断たれ、誰も信じられない状態になっていき、ついには食うものに困って娘を差し出し始めたのだ。
こうなると、未来は暗く閉ざされたものとなる。
圧制を覆すことも出来ず、かといって、娘の数にも限りがある。
餓死者が出たり、逃亡者も出たりする。
耕す者のいなくなった土地には、また何も知らない内町の人間たちが、騙されて連れてこられるのだ。
横でつながれないのならばと、千秋の父は内町の役所へと窮状を訴える直談判の手紙を書いた。
それを、家にいる最後の娘に託したのだ。
最後の娘。
それは、もし一家が重税に押しつぶされそうになった時に、姉たちのようにあの家に差し出され、慰み者にならねばならないということ。
そうなる前に。
父の手紙を持って、千秋は走った。
一番近い内町まで丸一日、握り飯一つと川の水だけでようやくたどりついたのだ。
結果は、ひどいものだったが。
そして、死にそこなった千秋はいま、糸目の男と向かい合って座っている。
怒りの余り、この世を見限った彼女の前にいるのは、菩薩の化身なのだろうか。
ゆっくりと鍋の湯が沸いていくのを、千秋は見るともなしに見ていた。
「思ったんだけどね」
毛先の跳ねたざんばら髪を、男は一度かきまわした。
声は、至って明朗だ。
千秋の村の不幸な窮状を聞いてなお、そんなものに振りまわされる様子などない。
そして。
「悪い奴は、ぶっとばしていいと思うよ」
あっけらかんと、とんでもないことを口にしたのだった。