みっつ目の自分 8
「どうしたんだい?」
そう声をかけられるまで、千秋は自分の外で長い時間が過ぎていたことに気づいていなかった。
更に言えば、その声が他の人のものであったならば、もっと時の流れに気づかないままだったかもしれない。
「先生」
驚いて振り返ると、そこにはやはり糸目先生がいた。
「藤次が来てうるさくなったから、ちょっと出て来たんだけどね……薬屋はもう少し先だろう?」
先生は、彼女の手元を見ている。
あかぎれの手当てもされていないので、まだ千秋が店にたどり着いていないと踏んだのだろう。
彼女は、先生を見つめたまま、首を右と左に一度ずつ傾けた。
「先生のことを考えていました」
そんな首をやや左に倒したまま、千秋は素直に言葉にしてみる。
「僕の?」
先生の声に怪訝はなかった。
怪訝ではなく、少し楽しそうな音。
千秋が、次に何を言ってくれるのか──それを楽しみにしているかのような。
「先生は、どんな時に私から離れて行くだろうって」
「へぇ」
先生の声に、力が増す。
喜びに迫力が加わり、心の奥底からわきあがるような音が、千秋に迫って来た。
こんな先生は、なかなか見るものではない。
「ひとつ、私に愛想を尽かした時。ふたつ、私といるのがつまらなくなった時、みっつ……私といる必要がなくなった時」
どれも似ているようで、実は違うものなのだと彼女は感じていた。
ひとつめは、千秋を嫌悪の対象としているし、ふたつめは先生が千秋に興味を失ったということだ。
そして、みっつめは──千秋が先生を必要としなくなった時、なのかもしれない。
「ふふ……ふふふ」
自分の吐き出した言葉を並べて、千秋がひとつひとつ向かい合って吟味していると、目の前で愉快そうな声がこぼれ始めた。
えっと顔をあげると、先生が自分の口元を押さえて、わきあがる笑いをこらえきれずにいるではないか。
「ふふふはは……相変わらず君は面白いことを考えるね、あはは。予想以上に、僕のことをよく分かっている」
笑いながら、もう片方の手で千秋の頭をくしゃくしゃとかき回す。
そっか。
軽く揺れる視界の中で、彼女はえへへと笑った。
本人に、自分のことをよく分かっていると言われたのが嬉しかったのだ。
そして同時に、みっつ目だといいと思った。
先生が千秋から離れて行く理由が、もしみっつ目であるとするならば、きっと彼女は理解できると思ったのだ。
それは、彼が自分を一人前だと、認めてくれたことと同じ意味なのだから。
その意味は、『先生が自分を捨てる』ではない。
藤次の言った言葉とは、違うものになる。
「先生は、みっつ目の理由で、離れた人はいますか?」
くしゃくしゃにされた髪を、手でなでつけながら、千秋はそっと上機嫌の先生に聞いてみた。
先生の尻尾は、どこにあるか分からない。
あると分かっていれば、踏まないように気をつけるのだが、彼は最初からそれがないかのように振舞うので、千秋には気をつけようがないのだ。
そんな、何があるか分からない空間に、彼女は一歩だけ足を踏み出した。
先生の方へと。
「……そうだな、一人いるね」
その瞬間、先生の頬によぎった郷愁の色を──千秋は見た。
羨望で、胸がいっぱいになる瞬間。
彼にこんな表情を、一瞬だけとは言え浮かべさせることが出来る人が、この世にいるのだ。
羨ましくてしょうがなかった。
そして、同時に。
その対象が、花枝ではないことが分かった。
彼女を前にした時の先生に、こんな色はなかったのだから。
「地史君……ですか?」
羨ましさの余り、声になっていた。
心の中だけで問いかけたつもりだったのに、千秋はあっと思った時にはそれを口にしていたのである。
目が。
先生の目が、ほんのわずかだけ開いた。
とても、本当にとても驚いたのだろう。
すぐに糸に戻ってしまったのだが。
それで、分かった。
先生は、地史君を捨てたのではないのだと。
もう先生が一緒にいる必要がないほど、素晴らしい人になったのだろう。
この時から、その人は千秋にとっては先輩弟子であり、目標でもある人になった。
「私も、必ず一人前になりますね」
心の中から噴き上がる羨ましさを、強く飲み込んだ。
いくら羨んだところで、いまの彼女に届くはずなどない。
逆に言えば、この羨ましさが消えてしまえば、千秋はきっと一人前になれる。
この気持ちを、その指標にすればいいのだ。
先生は、千秋を見た。
言葉にしがたい、わずかな無音の隙間。
「さて、薬屋に行こうか」
その隙間を、先生は綺麗に閉じた。
何事もなかったかのように。
「はい」
そして、千秋はあかぎれの薬を買った。
春屋に戻った後、先生は藤次を引きずってどこかへ消えた。
藤次は──そのまま戻って来なかった。