みっつ目の自分 7
「げ」
そう多くはない裏通りを行き交う人たちの声の中に、それはあった。
反射的にそちらを見てしまうのは、聞き覚えのある声だったからだ。
ぴたりと足を止め、こちらを見ている男がいる。
藤次だった。
山小屋にいた時のような毛皮の上着姿ではなく、しゃれた明るい柄の綿入れなどを着こんでいる。
熊らしい容貌が変わっているわけではないので、余り似合っているとは思えなかったが。
そんな男が、千秋を見つけてさっきの言葉を吐いたとなると、会いたかった訳ではないようだ。
むしろ、逆。
だが、藤次はそのまま彼女の方へと、大股で近づいてくるではないか。
「お前がいるってことは……春一も来てんのか?」
近すぎる距離まで詰められ、千秋は彼を見上げざるを得なかった。
冬だというのに、筋肉から温かな体温が伝わってくるくらいの近さだ。
しかし、それは親愛の近さというよりは、威圧の近さ。
この人も、強いんだろうなあ。
彼の質問には答えず、彼女は漠然とそんなことを思った。
これほどの重そうな身体を持っていながら、さっきの動きはとても機敏で。
千秋があっと思っている間に、すぐそこに来ていたのだから。
あの先生と対等に付き合えるのだから、何かしら優れているだろうとは思っていたのだが。
「春屋さんにいます」
彼が、何を心配していて何を聞きたいかは、最初から分かっている。
だから、千秋は質問に先回りをした返事をしたのだ。
「ぐぬぬぬ……はぁ」
顔が真っ赤になるほど力んだ後、藤次は──がっくりと肩を落とした。
見るも無残なほどに。
いちいち忙しい人である。
それはもう、藤次という男の個性なのだろう。
「ええい、チクショウ! 春一の野郎……花枝のことを袖にするんなら、最初から近づくな」
だが、その落ち込みは長くは続かず、彼は吠え始めるではないか。
身体が振動するほどの音に、千秋はまたも反射的に身構えてしまった。
周囲の人が何事かと彼らを見ているが、藤次の視線は突然ハッとしたように彼女に向けられるのだ。
深い怪訝の色をたたえながら。
「お前……春一に仕込まれてんだろ」
身構えた様子が、彼にそんな言葉を言わせたのか。
更に強い疑いの色が、はっきりとその目に浮かんでいる。
「先生ですから」
体術を習い、急所を知り、世間を学ぶ。
先生は、多くのことを千秋の血肉にしてくれた。
そんな彼女のまっすぐな答えに、藤次の表情が皮肉に歪む。
ぬうと。
前よりももっと大きくなったかのように思える身体を、千秋に覆いかぶせるように近づけてくる。
少しだけ酒の香りの残る息が、吐きかけられる。
「でも……まだ、だれも殺してねぇな」
この時ばかりは。
彼は、周囲に聞こえないほどの声でそう言った。
嘲るように、千秋の自尊心を引きちぎるように、藤次と言う男が出している言葉とは思えないほどの暗い響きを孕んでいる。
そんなことなど、見れば分かると言わんばかりに。
逆に言えば。
誰かを殺したことがある人間の目から、自分がどう見えているのか──それを教えられた気がした。
殺す。
他の生き物の命を奪う事。
人間以外のものならば、奪ったことはある。
食べるための獣や鳥やたちだ。
しかし、人間が人間を殺すことは、食べるためではない。
自分と他人の、生存競争のなれの果て。
いまのところ、千秋にその瞬間は訪れていない。
近い体験はあったが、先生はその時点で、千秋に誰かを殺させようとは思っていなかったように感じた。
「まだ、その時ではないようです」
考えながら、彼女は糸目先生を思い出す。
「春一とおんなじで、可愛くない言い方しやがって」
けっと、藤次に吐き捨てられる言葉。
だが、それは千秋にとってはただの褒め言葉に過ぎない。
先生と同じ道を歩いていると言われて、彼女が不快に思うはずなどないのだから。
「言っとくが……あいつは最後まで、誰かの面倒見るような男じゃねぇぞ。悪いこたぁ言わねぇ、キリのいいところでとっとと独り立ちしろ」
藤次は、自分から千秋に近づいてきたくせに、彼女の頭に大きな手を乗せると、ぐいっと自分から引き離すように遠ざけた。
物凄い力にこらえきれず、千秋はよろけながら後方へと足をさげる。
そんな手の陰から。
「地史君も花枝も、どっちも途中で放り出したんだ。間違いなく、お前も途中で捨てられるぞ」
彼は、厳しい声で言った。
これまでの、どんな声よりも真面目な音だった。
手が、離れる。
代わりに、藤次の視線がまっすぐに自分に注がれているのが分かる。
顔を見ているのではない。
彼は、千秋の心を見ているのだ。
さっきの自分の言葉に、彼女がどれほど心を乱しているのかを見ようとしている。
『お前も途中で捨てられる』
彼の言葉が、千秋の中で反響している。
地史君なる人間が誰なのか、彼女には分からない。
しかし、藤次が知る限り、先生は二人の人を途中で捨てたという。
そして。
千秋と会うまで、彼は一人だった。
先生が。
自分を捨てる。
彼女は、道端でその言葉を一生懸命考えようとした。
すぐそこに、藤次がいることなど、もはやどうでもよかった。
ただ、首をほんの髪の毛一本分だけ傾けて、深く長く考え込んだのである。
それは、一体──どういう時だろうかと。