みっつ目の自分 3
『あの子は昔から僕を好きでね』
衝撃的だったのは、その部分だろう。
先生にとっては、まるで挨拶みたいに気楽に吐かれた言葉。
この時、ふと思ったのは。
千秋が羽織っているこの赤い着物が、彼女のものではないかという想像だった。
もしそうだというのなら、花枝と言う女性は先生と一緒に暮らしていたということになる。
先生のことを好きな女性と、二人で暮らす。
しかし、千秋の想像は、入口で途切れた。
うまく想像が出来なかったというより、既視感にとらわれたせいが大きいだろう。
自分と先生の関係が、それとよく似ているのだ。
彼は、千秋には手を出さなかった。
いろいろ接触はあったが、それにはまったく決定打はない。
先生は、女なら誰でもいいという考えを持っている人ではなかった。
それを、千秋は自分の身を持って理解している。
ということは、彼女とのことも考えるだけ無駄だった。
先生にその気があるのならば、千秋がどう思おうが、結果は何も変わらないのだ。
過去は動かしようがないし、今後のこともどうしようもない。
少なくとも分かっているのは、先生は自分にはそういう意味で興味がない──ということだけ。
そして、もうひとつ分かっていること。
彼女も自分も、先生のことが好きだ、ということだ。
糸目先生の良さが分かるなんて、一体どういう人だろう。
心に隙間風が吹き込むのを感じながらも、千秋はそんな風にはへこたれなかった。
「花枝さんって、どんな方なんですか?」
彼女の問いに、先生は何故かぷっと吹き出す。
「花枝はなぁ!」
彼に、笑った理由を聞き出すより先に、暴れていた藤次が大きな口を挟んできた。
「花枝は、まろやかでしっとりしてて、こう女らしくてなぁぁ!」
拳を握りしめたかと思うと、すぐさまその手を開いて女性の曲線を描き始める。
大げさな描き方だろうが、胸腰尻を強調する動きに、とりあえずどういう身体つきの人であるかは分かった。
「とにかく、ちんちくりんとは真逆の、色香たっぷりの美しい女だ!」
「だから、千秋だって」
唾を飛ばしながら力説する藤次と先生は、まさに真逆だった。
そう考えると、真逆というのも意外と悪い話ではない気がする。
少なくとも、彼が千秋を『ちんちくりん』と呼ぶ度に、先生は冷静に訂正を入れるのだ。
その度に、『千秋』と呼んでくれる。
二人でいる時は、そんなことはほとんどない。
『君』と呼ばれることはあるが、面と向かって名前を呼ぶことなどなかった。
それは、千秋も一緒だろう。
今日の今日まで、先生の名前を知らなかったのだから。
そして。
どうして藤次という男が、花枝に好かれないのか、何となく分かった気がした。
彼が褒めたのは、全て外見に関するものだったのだ。
先生が人を褒めるとしても、おそらくそんな褒め方はしないだろうし、もし外見にこだわるのであれば、千秋など助けようとは思わなかっただろう。
「ところで……こいつは何だ?」
藤次の顔を見ながら、彼女が失礼なことを考えているなど知りもせず、そしてようやく少し冷静になったのか、千秋の存在について問いかけてくる。
彼女が、花枝のことを疑問に思ったように、向こうもまた千秋のことを疑問に思っているのだろう。
さっき、名乗りはしたものの、『何か』について明確に答えることはなかったのだから。
だが、その視線と質問が向いている先は先生であって、自分ではなかったが。
「ん? 何だっけ?」
そんな藤次の球を、糸目先生は軽く彼女に投げて寄こす。
先生にとって、千秋とは何か。
彼は、自分で答えることをせず、千秋に答えさせようとしているのだ。
どきっとした。
それは、深い意味のある問いかけに感じたのだ。
ここで彼女が答えた関係を、先生は素直に飲み込むのではないか──そんな気がしたのである。
白紙を、差し出されている気がした。
何と書いてもいいと、言われているのだ。
一番、周囲を納得させられそうなのは、『師匠と弟子』だろう。
実際、千秋は彼をずっと『先生』と呼んでいるのだから、それが一番自然なのだ。
けれど、それを口にした瞬間。
彼とは、永遠に師匠と弟子で終わってしまう気がした。
では、『恋人』になりたいのかと言われると、正確ではない気がした。
淡い希望とか、少女らしい夢とか、そういうものの先に先生がいる気がしなかったのだ。
近くにいながらも遠い背中。
千秋には、まだ彼の背中しか見えていない状態なのだ。
そんな今、彼女に言えることと言えば。
「私は、先生の背中の……向こう側を見てみたいです」
藤次の質問の返事としては、それは随分おかしいものだったはずだ。
実際、彼は意味が分からないように、大きく首を傾けている。
しかし、千秋が見ているのは藤次ではなく、答えを返すべき先生の方。
先生は。
「ああ……そう、それは、楽しみだ」
先生は──爆笑していた。