みっつ目の自分 1
夕闇が、すぐそこまで迫っている。
冷える風に追われてたどり着いた山道の先に──その小屋はあった。
前に見た、先生の炭焼き小屋と寸分たがわないようなそのたたずまいに、千秋は思わず前の山に戻って来たのではないかと錯覚したほどだった。
だが、それは違うのだとすぐに分かった。
なぜならば、その山小屋からは煙が上がっていて、今まさに誰かがそこに住んでいるのだと教えてくれたのだから。
建てられて随分時間のたった小屋の木材は、煤や汚れで黒ずんでいる。そんな壁際には、割られた薪が無造作に積んであり、いまにも崩れそうだ。
細かいことを、余り気にしない人が家主なのだろう。
何の迷いもなく小屋に近づき、先生は戸に手をかける。
「誰『が』いる?」
先生は、とても奇妙な問いかけと共に、それを遠慮なく開けたのだ。
返事は。
「げぇ」という、低くうめくような男の声だった。
「何だ、藤次か」
「いや、それより『げぇ』に反応しろよ。歓迎なんか、これっぽっちもしてねぇから、さっさと帰れ」
どうやら、知り合いのようだ。
好意的な知り合いかどうかはまだ分からないが、少なくとも先生の態度からすると、悪い相手ではないだろう。
たとえ、向こうの男の態度がつっけんどんでも。
小屋の床板が、近づく足音と共にミシミシと音を立てている。相当、床が悪くなっているのか──男の体重が重いのか。
入り口に近づいてきた男は、ようやく先生の後ろに立っている千秋の視界へと入った。
きこりかマタギと言われれば、あっさり納得できそうな立派な体躯の男だった。背は先生よりもう少し大きいくらいだが、とにかく見事な働く筋肉の持ち主だ。
黒髪は短く刈っていただろうが伸び始めていて、毛先が好き勝手に暴れている。全体的に毛濃く、長めのもみ上げから顎に向かって無精ひげが目立った。着物の上から獣の毛皮の上着を羽織っていて、温かさと野趣に溢れいる。
その毛皮と体躯が相まって、まさに熊と言った印象だった。
「お前が来ると面倒なんだよ。頼むから俺をそっとしとけ」
そんな熊顔を思い切り顰めながら、手はしっしと先生を追い払おうとしている。
「僕の小屋を空けてきたから、冬の間、藤次はそっちに住むといい。僕とも顔を合わせないから、それで文句はないだろう?」
先生は、終始にこやかだ。
だが、言葉には一切の遠慮はない。
それほど、遠慮のない間柄ということだろうか。
そう考えると、千秋は藤次と呼ばれた男が、少しうらやましく思えたほどだ。
彼女が先生に、何か遠慮しているというわけではないのだが、言いたいことを言い合う対等な関係というわけではない。
「いやだから、俺はここを離れたくねぇの! そんで、お前の顔も見たくねぇの! 分かるか、春一?」
あっ!
つれない藤次の返事に、千秋は大きく反応してしまった。
いま。
いま、彼は言ったのではないか、と。
『春一』と。
まるで人の名を呼ぶように、先生に向けてこう言ったのではないか。
はるいち、はるいち。
それが先生の名前に違いないと、慌てて千秋は唇の中でその名前を復唱した。
初めて知ったその名に、自然とどきどきしてしまう。
絶対に忘れないようにしようと、何度も何度も繰り返していると──ふと、視線を感じた。
顔を上げると、藤次が自分を怪訝そうにじーっと見ている。
「何だ、このちんちくりんは?」
藤次は、とても正直で、言葉を飾らない男だった。
その、余りに素直な一言は、まっすぐに千秋を突き刺す。
色気がないという自覚はあったが、まさか『ちんちくりん』なる、素晴らしい言葉で形容される日が来るとは、思ってもみなかったのだ。
「千秋だよ」
へこたれそうになる彼女の前で、先生は一言そう言った。
「は?」
意味を理解出来ていない藤次が、大きく首を横に傾ける。
「ちんちくりんじゃなくて……千秋だよ」
後ろ手に伸びてきた先生の手が、千秋の腕を掴んで前に引っ張り出す。
先生の身体より前に出されると、ものすごく藤次との距離が詰まった。
見事な筋肉のおかげで、熊に覆いかぶさられているような圧迫感があった。
だが、先生がわざわざ彼女の名を呼んで、紹介してくれたのだ。
ここで怯んでは、女がすたる。
「ち、千秋です。どうぞよろしくお願いします!」
背中ぴしっ、お辞儀しゃきっ。
千秋は、学者先生でも前にしたかのように、しゃちほこばって挨拶をした。
「……」
藤次は、そんな彼女にしばらく黙り込んだ。
そして、視線を先生に向けるのだ。
「で……このちんちくりんが、何だって?」
彼にとって──千秋の名前など、どうでもいいことのようだった。