罪と饅頭の重さ 4
「先生!」
湯屋の外に、先生は既に出ていた。
ふんどし一丁で──ではなく、着古した方の着物を既に着終えている。
「さあ、泥棒を探そうか」
「はい!」
いちいち説明する必要は、糸目先生にはない。
「一番大通りの、商店通りから見るよ」
駆け出す先生。
着物がはだけそうで、千秋は片手でしっかり押さえながらついていった。
ケチな泥棒や、手癖の悪い人間は内町だからといって、まったくないわけではない。
ただし、その数は非常に少ないことを千秋は知っている。
何故ならば、犯罪者として捕まった場合、内町から追放されてしまうからだ。
内町の人間にしてみれば、死刑よりも残酷な刑だろう。
だから、子どもは親に厳しくしつけられる。
『悪いことをすると、町から追い出されるよ』と。
それほどの代償を越えて悪さをするということは、よほど捕まらない自信があるからなのか。
それとも。
千秋は、走りながらふと考えてしまった。
それとも、自分を『外』の人間だと分かったから、だろうかと。
随分汚れた、見慣れない娘が湯屋にくる。
見る人が見れば、すぐに分かるのかもしれない。
外の人間なら、着物を盗まれても何も出来ないのではないか、と。
よし。
千秋は、頭の中で組み立てた仮定を、とんとんと整えて意識の中にしまう。
大体、納得がいった。
理不尽な事象ではあるが、混乱した頭はおさまったので、次にするべきことへ切り替えたのだ。
前を向くと、先生は少し首を左へ傾けていた。
左奥の方の店で、何か騒ぎが起きているような声が聞こえてくる。
千秋は、先生の身体の向こうの景色を見ようとした。
女同士のけんかのようだ。
店の玄関あたりで、女二人が掴み合う騒ぎになっている。
それだけ聞くと、自分たちと無縁の出来事のように思えた。
しかし、千秋は見たのだ。
その片方の女性が──古着屋で会ったおばさんであることを。
更に、おばさんはまだ古着屋にいた。
騒ぎは、そこで起きていたのだ。
「ちょっと離してよ!」
「いいや、離さないね! あんた、その着物はどこから盗んで来たんだい!」
「あたしの着物よ、盗むなんて人聞きの悪い!」
風に乗って、女二人の金切り声が響く。
人々が、おっかなそうに彼女らを避けて歩いているが、千秋はもはやまっすぐにその中に駆け込んでいた。
いつの間にか、先生を追い抜いていたのも気づかなかった。
自分の方が足が速いわけではないので、きっとわざと先を譲ってくれたのだろう。
「おばさん!!」
風呂が台無しになるほど汗だくになったまま、千秋はおばさんを引きはがそうとする女の手首を掴んでいた。
「あ! あんた! あんたあんた! き、着物はどうしたんだい!」
目を転げ落とさんばかりに見開きながら、おばさんは絡まる舌で千秋に問いかける。
「盗まれました」
答えた途端、手首を掴んでいる女が「チッ」と舌うちした。
「離してよ、あたしは知らないよ!」
いい石鹸を使っているのだろう。
女からは、風呂上がりの芳しい香りが漂ってくる。
千秋から着物を盗んで、彼女はすぐに古着屋に売り払おうとしたのか。
まだこの店で粘っていたおばさんは、それを見たのだ。
店にどんな古着があるか、覚えているような人である。
持ち込まれた着物は、ここで買われたものと千秋の着ていた物。
それを見れば、この女性が何をしたか、おのずと想像がつくというもの。
「着物は、店主のとこにあるよ!」
おばさんは、心底ほっとしたように中を指す。
着物の確保だけではなく、逃げようとした犯人まで捕まえようとしてくれていたのだ。
「助かりました、ありがとうございま……」
お礼を言おうとしたら、手首の女が動いた。
掴んでいる手越しに、彼女の身体の動きに気づいた千秋は、さっと足を引く。
思い切り掴んでいるので、手からは逃れられないと分かった女性が、彼女の牛蒡のような足を蹴っ飛ばそうとしたのだ。
足は大きく弧を描いて空振り、体勢を崩す。
その身体の流れのままに、千秋は女の弧の続きを描かせた。
要するに──転がしたのだ。
風呂を済ませたばかりで、地面に転がる羽目となって、彼女はきっと不幸な気持ちになっただろう。
しかし、着物を盗まれて汗だくになった千秋とて、それは同じことである。
叩きつける気はなかったので軽く落下した女は、何故自分がいま空を見ているのか理解できず、目をぱちくりとさせていた。
「先生、泥棒はどうしたらいいですか?」
くるりと振り返ると、何故か先生は本当に目の前にいた。
「さあ、どうしようかね」
こちらに伸びてくる両手。
「……?」
意図が分からずに見つめていると。
先生は、その両手で千秋の着物の襟を掴むと、ぎゅっと真ん中に寄せてくれた。
あ、ああああああ!
何故そんなことをされたのか気づいて、千秋は真っ赤に茹であがる。
色黒なせいで、ほとんど赤みは見られていないだろうが、彼女自身は死ぬほど恥ずかしい思いを味わっていた。
女を転がした時、千秋は自分の着物の前を抑えるのを忘れていたのだ。
そのせいで、大きくはだけていた。
貧相な胸を、往来でさらしてしまっていたのだろう。
「取り合えず、古着屋さんに入ろっか」
犯人の女の手を受け取りながら、先生は千秋の背を店の中へと押し込んでくれたのだった。