罪と饅頭の重さ 3
「湯屋には、行ったことはあるかい?」
道すがら先生に問われて、千秋はむかしむかしをちょっとだけ思い出した。
いつも、伯父の家にお風呂を借りに行っていたことを。
そこの都合の悪い時だけ、湯屋に行くことになるが、そんなことは本当に滅多になく。
一度か二度の記憶しか、よみがえってこない。
音の反響する湿気に包まれた世界。
大きな湯船にはしゃいだことが、うっすら思い出される。
千秋の沈黙を、何と取ったのだろうか。
先生は、説明を始めた。
「入ると番台があるから、そこにお金を払って『女』と書いてある方に行くんだよ…そしたら脱衣所があるので、空いてるかごに……」
あがったら、湯屋の前で待ち合わせよう。
言われたことに、こくこくと頷いてついていく。
大きな煙突に向かって、歩いていることに気づく。
あれが湯屋なのだろう。
予想通りの場所にたどり着き、のれんをくぐると目の前に番台がある。
老婆が一人座っていた。
一度に二人分、払えそうな作りなのに、先生はわざわざ千秋に小銭を渡す。
そして、どうぞと自分の前に行かせようとするのだ。
これもまた、勉強なのだと感じた。
何でも、一人で出来るようになる訓練のひとつ。
千秋は手の中の小銭を、番台の小皿に入れる。
「まいど」
無愛想な老婆は、顎で右ののれんを指す。
『女』と、紺地に大きく白で抜かれた文字の長のれんがさがっている。
ちらりと振り返ると、先生が軽く頷いた。
一人の心細さを、自分の手でぎゅっと握って、千秋はいざ女風呂へと足を踏み込んだのだった。
※
意外と簡単だった。
千秋は、綺麗に髪と身を洗って、湯船に沈み込んだ。
長い間忘れていた、温かい湯に包まれる感覚が、固い自分の身をほぐしていくように思える。
意識が、だんだんとろんとしていく。
外の生活は辛くはないが、身体には疲労が蓄積していたようだ。
そんな正直な身体の悲鳴に逆らえないまま、彼女はゆっくりとお湯を堪能したのだった。
さすがにそろそろ出なければ、先生を待たせ過ぎてしまうのではないか。
とろける意識と、湯への後ろ髪引かれる葛藤を乗り越え、彼女はようやく脱衣所へと戻った。
問題は、その時に発覚した。
「あれ?」
千秋は、脱衣所のかごの前で首を傾げる。
ああ、ここじゃなかったっけ。
沢山篭の並ぶ棚があるので、どうやらうっかりしたらしい。
彼女は、違う列を覗いた。
「……」
もうひとつ、向こうの列に行く。
「……」
ひととおり、篭の中を眺めながら、脱衣所中を裸で歩きまわった。
しかし──千秋の着物の入った篭は、なかったのだ。
と、とられ、た?
千秋は、茫然と突っ立つハメとなる。
その事実が信じ難く、もう一度全てのかごを見て回るが、先生にもらった汚れた着物と、今日買ってもらった着物の入ったかごなど、どこにもなかった。
どう、しよう。
温まったばかりなのに、千秋は自分の指先が冷たくなっていくのを感じる。
落ちついて。
千秋は、深呼吸をして冷静に物事を考えようと努めた。
先生なら、こんな時どうするだろうか。
そう考えかけて、ああそうかと彼の顔を思い浮かべた。
出てすぐの場所に、きっと先生はいる。
こんな身体で飛び出して行くことは出来ないが、この窮状を訴えることは出来るのではないか。
千秋は、そっと出入り口の方に壁寄りににじりよった。
番台から、かくりと直角に曲がって脱衣所があるので、頭だけ出せそうだ。
「せんせー……」
目の端っこだけのれんの陰から忍ばせながら、千秋は糸目先生を呼んでみた。
驚いたのは、先生がすぐ目の前にいたこと。
番台の老婆の前に、にこにこしながら立っていた。
千秋の遅さに気になって、ここで待っていてくれたのだろう。
助かった。
呼びかけに、ふっとこちらを見た先生に、千秋がほっとしたのもつかの間。
いきなり彼は、その場で着物を脱ぎ始めたのだ。
老婆の目の前で。
番台は、外から丸見えである。
そんな往来から見えるところで、先生は着物と帯を取り去ったのだ。
うわあ。
ふんどし一丁の、先生の出来上がりだった。
普段、着物に隠れて見えなかった肩や二の腕、それどころか引きしまった尻まで見えるその状況で、彼女は固まりそうになる。
荒事に長けた先生ではあるが、前面にはほとんど大きな傷はない。
ただ、何故か背中だけ古い傷が一面に走っていた。
見るだけで痛々しいほどに。
だが、そんな背中は、すぐに見えなくなる。
「はい」
のれんの隙間から、腕がにゅっと入ってきたのだ。
たったいま、脱ぎたての着物と帯が掴まれている。
ああっ!!!
それで、ようやく思い出した。
まっぱだかの自分に気づいた先生は、ただ着物を渡そうとしていただけなのだと。
冷静に考えれば、すぐに分かることなのに、余りに見事なふんどし姿を見せられて、頭が飛んで行ってしまっていたのだ。
千秋に渡された着物は、新しい方。
着古した方ではなく、そっちを渡すためには脱がなければならない。
顔色ひとつ変えず、先生を睨んでいる老婆は、さすがは裸を見なれた商売と言えるか。
「助かります!」
慌てて手を伸ばして着物を受け取ると、千秋は急いで陰で着物に袖を通す。
やっぱ大きいな。
背は、さほど高くない先生だが、やせっぽちの彼女には着物は随分余ってしまう。
しかし、文句は言ってられない。
余る部分を引っ張りながら、千秋は帯で無理矢理縛った。
胸元がすかすかと風通しがいい状態だが、抑える紐も足りないので文句は言えない。
とりあえず、体裁だけ整えると胸元を手で押さえながら、千秋は草履をはいてようやくお日さまの下に出たのだった。