罪と饅頭の重さ 1
「待たせたね」
広場にたたずんでいた千秋は、そう声をかけられた。
はっと振り返ると、そこには彼女の師匠が立っている。
医者のような頭巾をかぶっているので、何だか印象が随分と違うが、彼の声を間違えたりはしない。
灰色の頭巾は、整体師の印だ。
鍼灸師や骨接師、内診師に薬師、産婆など、それぞれ違う色の頭巾をかぶっている。
町を歩けば、その人が何の職業であるか分かるようにしてあることで、必要な民に声をかけやすくしてあるのだ。
逆に、仕事をしたくない時の医者は、わざと頭巾をかぶらずに出かけるようだが。
そんな身分を証明する衣装を、先生はあっさりと取り去って懐にしまう。
中から出て来たのは、見事な糸目。
「先生、無事に入れたんですね」
ようやくの再会に、千秋は心底ほっとしたのだ。
実際、離れている時間は、ほんの半時ほどだったろう。
しかし、知らない町で無事再会できるかどうか分からずに、彼女はずっとどきどきしていた。
もう一度、内町に入れるなんて思ってもみなかったが、それは千秋が望んだことではない。
前に拝借した馬を見て、先生が言ったのだ。
「この馬、売っぱらおうかな」
余りにいい馬過ぎて、長く持っているには目立ち過ぎるという。
それに異論はないが、一体どこで売れるのかと怪訝に思っていたら、先生はさっそく準備に取り掛かった。
得意の山で鳥を狩り、それを外村の長のところへと持っていき、売りつけて来た。
その代わりに頂いて来たのが、お金と灰色の布。
針と糸も渡されて、千秋はそれで頭巾を縫ったのだ。
正確には、余りに器用に先生が自分で縫おうとしたので、つい奪い取ってしまったという方が正しい。
彼が、何でも出来る人であることは、これまでのことでよく知っている。
しかし、余りに全部をこなされてしまうと、千秋は女として立場がなくなってしまうのだ。
糸目先生がしたいことは、自分もしたいこと。
そう信じている彼女は、ちくちくと頭巾を縫い上げた。
出来上がった着物など買えない外村にいたので、古い着物を解いて、別のものをこしらえることなど、日常茶飯事だったのだ。
彼女が縫物をしている間に、先生は馬具をすべて取っ払って捨て去った。
裸馬の出来上がり、だ。
馬具には軍の印が入っているので、こんなものをつけて売れば、すぐに盗まれた馬だと分かってしまうという。
鞍の代わりに、さくさくと編みあげた竹籠を背負わせる。
ようやく千秋が頭巾を縫い上げた時には、その籠にはたっぷりの生きた野鳥と山菜が詰め込まれていたのだ。
そして、差し出されたのは──町に入るための許可証だった。
「……!?」
さすがに、これには千秋も驚いたのだ。
外村の農民たちが、どんなに欲しいと思っても手に入らないようなものを、先生はあっさりと出してくるのだから。
茫然としている千秋に。
「本物じゃないから安心してね」
と、矛盾に満ちた説明をしてくれた。
普通なら、「本物だから安心して」というところではないのか。
だが、もしこれが本物であったとしたら、千秋はどうして彼がそれを持っているのか疑問でいっぱいになったはずだ。
確かに、先生は以前の町に入るための許可証は持っていた。
だが、許可証は町ごとに決まっていて、どこの町でも通用するようなものを持っているのは偉い人くらいだ。
あっさり偽造された証書を差し出すところを見ると、前の町の許可証も本物ではなかったのかもしれない。
「分かりました」
千秋は、笑顔でそれを受け取ることにした。
先生に抜かりがあるはずがない。
門で疑われて捕まるような許可証を、彼が用意するはずがないのだ。
千秋は、山の物売りとして、馬を引いて町に入る。
先生は、後から別の許可証で入ってくるという。
灰色の頭巾は、そのためのもの。
「門の中に入って、まっすぐ道を行くと広場に出るから、そこで待っててね」
先生の教えを、大事な言葉として千秋はごくんと飲み込んだ。
別行動になるのだから、この言葉にちゃんと従わないと会えなくなってしまう。
幼い頃の記憶だが、彼女は内町のことを知っていたので、その広さを十分に身体で覚えていた。
うっかり迷子になろうものならば、ひどいことになる。
地理の明るさからおそらく、先生はこの町に入ったことがあるのだろう。
許可証を偽造出来るということは、ある意味、どこの町にも入り放題ということだ。
これまで、いろんな町を見て来たに違いない。
偽造というちっぽけな悪など、千秋の目にはどうでもいいこととして映っていた。
彼女の前で、先生が人を殺した数にも関心はない。
糸目先生は『卑劣な悪』は、しなかった。
弱い人を傷めつけたり、何かを奪おうなんて、思ってもいない。
この世の『法』は、弱い者を守るものではないのだと、千秋は本能的に気づきかけていた。
だからこそ弱い者は、法を大事にするよりも、己の良心に従ってたくましく生きるしかないのだ。
たくましい部分を、千秋は糸目先生を通じて学んでいる最中。
彼は弱い人間ではないが、強い側にいることに興味がないように見えた。
それもまた、千秋が先生を信じられる理由のひとつ。
「さて、荷を売り払いに行こうか」
馬の手綱を、彼女から受け取りながら、先生は笑う。
この町に入ったのは、ただの手段であって目的ではない。
「はい!」
全部売って身軽になったら、また二人で自由な外に出るのだ。
彼女は、軽い足取りで先生の後について歩き始めたのだった。