春の一 5
「初めて乗りました」
千秋は、おっかなびっくり馬にしがみついている。
残った一頭の馬を、春一がごく自然に拝借したのだ。
彼女を前に乗せ、後ろから彼が支えるように手綱を持つ。
本当に、胆力のある子だ。
黒々とした千秋の髪が、目の前で揺れる。
たとえどれほど、春一が目の前で他人の命を奪おうとも、彼女はそんなことなどどうでもいいことだと思っているように感じるのだ。
それ以前に。
何故、自分のことを聞こうとしないのか。
どこからどう見ても、彼はカタギではない。
少なくとも、千秋が見てきた部分だけでも、十分怪しさの塊だった。
なのに、不自然なほどに聞いてこない。
かと言って、春一にまったく興味がないわけではなく、むしろ逆。
まっすぐな信頼の心は、本当に彼を心地よくさせるものの、微妙な気分も味わわせてくれる。
どこまで、彼女は自分を信頼し続けられるだろうか、と。
何が、彼女にとって裏切られたと思うことなのか、その最終線がよく分からない。
命を助けてからここまで、居心地のいい関係を作り上げてしまったせいで、彼女の目に『不信』の色が浮かぶのを見るのは嫌だな、と思ったのだ。
すっかり気に入ってしまっただけに、手放したくない気持ちが、着実に春一の中で育っていた。
さて、どうしたものかね。
きょろきょろと珍しそうに周囲を見回す千秋を見つめながら、彼は馬を走らせる。
「高いですね……眺めがいいです、先生」
背中を預けるようにして、首だけで少し振り返る彼女の顔は近い。
興奮しているのか、頬や耳が赤くなっている。
ま。
「そうかい、よかったね」
ま、いっか。
千秋は楽しそうだし、幸せそうだ。
二人をつなぐものは、俗世に転がっているものではない。
金でも財産でも、地位でも権力でもない。
ひろびろとした町の外で、たまたま出会って生まれた、信頼というものだけだ。
この世界で、そんな儚いものが生まれたこと自体、奇跡のような出来事。
いまは、それを楽しめばいいのだと、春一は思った。
色々としょうがない国だが、楽しいことは彼の腕の中にあるのだから。
「今夜は、何を食べようか?」
「おいしい鳥を捕まえましょう!」
こんな、たくましくも他愛ない会話さえ──春一には、幸福の塊に見えるのだった。
『春の一編 終』