春の一 4
うまくいく逃亡計画の──はずだった。
千秋と楽しく歩く日々が戻ってきたと思っていたのに、計画違いが発生してしまったのだ。
山とは反対の北側へ向かっていた二人の後ろから、数騎の騎馬が追ってきていた。
ありゃりゃ。
春一は、せっかく彼女にいいところを見せたつもりが失敗してしまい、少しだけ残念に思った。
同時に、近づいてくる騎馬の様子が、想像と違うことに気づく。
馬に乗っている彼らの姿は、用心棒というより、軍人のものに見えた。
兜に鎧、頭のてっぺんからひらひら揺れる緑の布。
間違いない、西方担当の軍属の者だ。
余計に悪いな。
軍人が、外村の長のところに来る理由は、いくつかある。
内町の役所からの知らせなどを届けるためや、街道の警邏や巡察のため。
もし、自分たちと無関係な仕事であの村に来ていたとしても、こうして向かい合ってしまえば、無関係とはいえなくなる。
何故ならば、目の前まで来て馬を止めた軍人は、彼らを見てこう言ったのだ。
「糸目の男に……女」
二人は、お尋ね者だった。
相変わらず、春一は『糸目』と呼ばれるようだ。
いつどこにいても、彼について話題があがる時は、『あの糸目の奴』だった。
それはさておき、千秋の村の長をぶっとばしたことは、やはり報告されていたのだろう。
「ちょっと話を聞かせてもらおうか」
馬から、一人が威圧的に下りてくる。
ずしんと音がしそうなほど、重量級の男だ。
後ろの二人も、馬上のままではあるが、油断なく剣を抜いた。
「先生……」
千秋が、彼の袖を引いた。
彼女にとっては、初めての追跡者との遭遇だ。
多少の武術は伝授はしたが、やはりこれほどの体格差と職業軍人を相手にすることが不安なのだろうか。
そう思っていたら。
「先生……私、やってみてもいいですか?」
何と、おそるおそるではあるが、自分から前に出ようとするではないか。
うわぁ。
感動と同時に、春一の胸の中に爆笑の渦が湧き上がる。
さすがだ。
さすがこの子だ、と。
小さい彼女からすれば、子供が立ち上がった熊と対峙しているようにしか見えない。
誰が見ても、『おチビちゃん、逃げて!』と叫びたくなる構図である。
軍人は、困惑の表情を浮かべた。
彼は、野生の熊ではなく人間だ。
だから、突然小さい少女が立ちはだかったことに戸惑っている。
だが、軍人は自分の職務を全うしようとした。
いきなり斬りつけるような非道な真似はしなかったが、大きな両手を出して、彼女を捕まえようとしたのである。
紳士だねぇ。
それを、心地よく春一は眺めていた。
剣を出されたら、さすがに彼も手出しをしたかもしれないが、根が心優しい男なのか、あからさまに女を傷つけようとはしない。
まさに──格好の千秋の獲物。
いい、訓練台だった。
「おっ?」
男は、まるで石にけつまずいたかのような、間抜けな声をあげる。
その直後。
ドシンと、彼は地面に仰向けにひっくり返されていた。
「……」
刹那に生まれた虚を、春一は逃しはしなかった。
騎馬の二人の馬に、拾った石を投げつけたのだ。
「うわあっ!」
驚いた馬は大きないななきと共に暴れ、前足を高く跳ね上げ、馬上の軍人を突き落とす。
ほいほいっと。
更に石を馬の尻に投げつけるや、二頭の馬はこらえきれずに散り散りに駆け出してしまった。
「この!」
千秋に投げ飛ばされた男が、牛蒡のような足を掴もうとするが、すでに彼女は春一の方へと逃げてきている。
『先生……私、やってみてもいいですか?』
そう、彼女は言ったではないか。
それは、『うまくいかなかったら、先生、よろしくお願いします』という意味。
千秋からの信頼の大きさを、春一は心から受け止め、受け入れた。
「君は、彼女に優しかったから……手加減してあげよう」
熊のような軍人が起き上がり、顔を真っ赤にして剣を繰り出すのを、彼は遅回しの映像で見ていた。
すっと懐にもぐりこみ、剣を握った手に自分の手を添える。
そのまま。
全身を。
ね──じった!
ズダダダァァァン!!!!
受身など取らせる隙間も与えず、兜の頭から地面に叩きつける。
頭をしたたか打ち付けられ伸びた男を踏み越えて、残り二人に飛びかかる。
手加減の話をしたのは──さっきの男だけだった。