春の一 3
「先生! 大変だ!」
地面にひいたむしろの上で、農民の身体をぱきぱきいわせていた春一の元に、若い男が駆け込んでくる。
千秋が『先生、先生』と連呼するものだから、村人まで同じように呼ぶようになってしまった。
整体の医者か何かだと、思われているに違いない。
「ち、千秋ちゃんが、長んとこの用心棒たちと揉めて!」
人の背中に置いた手を、春一は一度止める。
長は少々まともでも、用心棒がみなそうだとは限らない。
もともと、内町に住めないような者を雇っているわけだから、粗暴で学のない者ばかりだ。
かえって内町出身の農民の方が、よほど学があるだろう。
「見慣れないっていうんで絡まれて……男が千秋ちゃんを触ろうとして」
ああ。
話の流れ的に、オチが見えた。
春一は、背中に置いた手を再び動かし、ぱきっと言わせる。
「あだだ」
という患者の声と。
「千秋ちゃん、男を投げ飛ばしちゃったんだよ!」
という男の声は、ほぼ同時だった。
まあ、投げ飛ばすだろうね。
女の身体を触るのは、『春一以外』は悪い奴──千秋の身体に、彼自身がそう仕込んだのだから。
「相手は何人だったかな?」
ぱきぱきぱきぱき。
「えっ? えっと……三人です」
「ただいま帰りましたー」
言葉が、立て続けに交差した。
春一は、千秋の手に負えるかどうかを判断するために人数を聞いたが、男はそんな問いに戸惑って、少し答えるのに遅れる。
そこへ、当事者である本人が滑り込んできたのだ。
ぴんぴんした様子で。
走ってきたせいか、はあはあと息こそ乱れてはいるものの、千秋は無事だし笑顔も溌剌としている。
ちょっと、髪が乱れているくらいか。
そんな彼女を、春一は満足に思いながら見上げた。
ぶっとばしたら──逃げる。
千秋に足りなかった最後のものを、春一が教えたのだ。
戦い続けるのは無駄なことなので、すみやかに逃げる。
彼がそれを体言すれば、千秋は何の疑いも持たずについてくる。
ここまでの道のりで、どうやらちゃんと身についたようだ。
放っておくと、命尽きるまで戦いそうな彼女の魂を、そうして春一は整えてきた。
「そろそろ、ここも頃合のようだね」
「はい、すみません」
整体をやめて立ち上がる彼に、千秋が照れた顔で詫びる。
うん、可愛い可愛い。
春一は、そんな彼女の様子に幸せな気分を味わえる。
この村に、長居したいわけではない。
しばらく農作業の手伝いをしていた千秋だが、ここの生活に未練がないのが、よく伝わってくる。
彼女の優先順位の一番目に、しっかり春一が座っている証拠だ。
それは、嬉しいことであり、当然なことである。
「お世話になりました!」
いともあっさりと、彼女は村人に別れを告げる。
対する人たちが、ぽかんとしてしまうほどに。
「追われると面倒だから、山に入ろうかな」
挨拶も適当に、そんなことを言いながら歩き出す春一を、小走りで彼女が追ってくる。
「本当ですか?」
横から、ひょこっと疑わしげな表情が見上げてきた。
どうやら、彼の言葉を信用していないようだ。
「よく分かったね」
ぽんぽんと、その頭に手を乗せてほめてやる。
千秋のぶっとばした男たちが、人数を集めて仕返しに来る可能性があった。
あの農民たちのところへ行き、どこへ逃げたか聞くかもしれない。
だから、春一は聞こえるように『山に入る』と言ってやったのだ。
追跡をかく乱するために。
その間に、さっさと距離を稼がせてもらおう。
それが、彼の立てた逃亡計画だった。