あなたなら、そう言う ~ステップ・バイno.3
ドラマ撮影後いつになってもいいから、事務所に来てほしいという話だった。
急な連絡ではあったが、芸能界にいる以上珍しい話ではない。結流は急遽入った仕事の打ち合わせか、まあ、その程度だろうと思っていた。
だから。
会議室に通され、向かいに座るマネージャーの土屋さんの口から飛び出した言葉を、結流の脳はすぐには理解できなかった。
「パリコレのオーディション??」
は??? 思わず聞き返す。
土屋さんは静かに頷いた。
「正確にはオーディションというより、指名に近い形ね。モデルの実績もない人間に出すオファーの形としては異例中の異例だわ」
「・・・え?」
「ランウェイモデルよ」
結流は瞬きをした。理解が追いつかない。
パリコレ。
あの、パリコレの話だよね。バラエティや映画の撮影の中にある何とかコレクションじゃなく、本当の話・・・ドッキリとかじゃなく? テレビや雑誌で見る世界。遠い異国の、選ばれた人だけが立てる場所。自分とは何の接点もないと思っていた世界。
「宣伝のための、フロントロウやアンバサダーとかじゃないわよ」
土屋さんはきっぱり言った。
「・・・ランウェイ」
ますます意味がわからない。有名芸能人がブランドの顔として、雑誌広告に掲載されたり、パーティでそこの服を着て宣伝したり、そういう仕事があるのはわかっている。でも、ランウェイ。その一言が重い。結流の指先は自然に膝の上で震えた。
土屋さんが静かにパソコンの画面をこちらに傾けた。
画面に、一枚、また一枚と資料が並べられていく。
最初に目に飛び込んできたのは、誰もが一度は耳にしたことのある世界的ラグジュアリーブランドのロゴだった。
その下にはデザイナー名。
開催地、パリ。
ショーの概要。
オーディションスケジュール。
現地入りの日程。
滞在予定のホテル。
移動ルート。
英語とフランス語らしき言語が混在した書類には、見慣れない専門用語もびっしり並んでいる。
更に別の資料。
ランウェイ写真。
歴代ショーの会場。
ライトを浴びて歩く世界各国のトップモデル達の写真。
テレビや雑誌、ネットでしか見たことのない景色が、目の前に次々映し出される。
結流は思わず息を呑む。
テレビの向こう側の世界だった。自分が芸能人になっても、遠い外国の出来事。自分とは無縁だと思っていた場所。
それが今、目の前に現実として積み重ねられている。資料が1枚ずつ映し出される度、逃げ道が一つずつ塞がれていくようだった。
最後に土屋さんが出したのは、分刻みで組まれた全行程のスケジュール表だった。
羽田発の便名。
パリ到着予定時刻。
オーディション。
フィッティング。
ショー本番。
帰国日。
すべてが具体的な日時とともに印字されている。
(仮)。そう書かれているのに、不思議と決定事項にしか見えなかった。オーディションと言う事は落ちる可能性もあるはず。なのに、ショー本番までの具体的な流れを見せられている。
結流は無意識に自分の膝の上で拳を握る。
資料ではない。現実が並べられている。
そんな気がした。
結流は、芸能界に入って1年の若手女優の自覚はある。そこそこ売れ始めた自覚もある。でも、モデルとして活動していたわけではない。雑誌のグラビアや広告、ファッション誌の撮影に呼ばれた事はあるが、それはあくまで女優としての仕事の延長だった。
でもパリコレは違う。まるで別の世界だ。
頭の中が白くなっていく。
同時に、別の事が浮かんだ。
スマホの画面。
数日前に届いた、紬さんからのメッセージ。
『俺の誕生日、一緒に過ごしてくれる?』
結流は、その一文を三度読み返した。
誕生日。
一緒に。
過ごしてくれる?
胸が熱くなる。脳まで届いた瞬間、結流はベットに飛び込んで、クッションに顔をうずめた。絶対、今、顔は真っ赤だ。このクッションを顔から離すと、変な声を上げると思う。
勿論、誕生日がいつかは知っていた。でも忙しい人だ。当日も誕生日ライブを行ったりするはず。一緒に過ごす時間なんて取れないと思っていた。おめでとうメッセージを送って。お互いの休みが合う日を探して、近い日時でゴハンでも食べに行けたらいいな、くらいの気持ちだった。
自分から言い出すのも、その距離感おかしくないかとか、早すぎないかとか、いろいろ思うとそこら辺には全くふれずにいた。
でも。
誘われた。
紬さんから。
それだけの事なのに、何度見ても頬が緩んでしまう。
返事を打とうとして、止まる。
『勿論です』
違う。
固くない?
『ぜひ』
それも仕事みたい。
『嬉しいです』
・・・嬉しいのは本当だけど、恥ずかしい。
何度も文字を打っては消して。また打って。
結局。
『お願いします』
それだけ送った。
送信ボタンを押した瞬間、スマホを伏せる。
「・・・もう」
見ていられない。なのに気になって、十秒も経たないうちにまた画面を見てしまう。
返信は、すぐ、だった。
『よかった』
その一言に思わず笑ってしまう。
続けて届く。
『断られたらどうしようって、ちょっと緊張してた』
「・・・え?」
思わず声が漏れた。
紬さんが? あの紬さんが? ライブでは何万人もの前で笑って、歌ってる人が。テレビでもいつも余裕そうなのに。
そんな事あるの? ないない、思いながら慌てて返信する。
『断るわけないじゃないですか』
送ってから、はっとする。偉そうだったかもしれない。消せない。もう遅い。
数秒後。
『そっか』
『よかった』
『安心した』
その三連続のメッセージに、結流は両手で顔を覆った。
「もう・・・」
ずるい。そんな風に言われたら嬉しくなるに決まっている。
あの人は、こんなやり取りを他の人ともしてきたのだろうか。あれだけ格好良くて、これだけ慣れていたら・・・。一瞬だけ胸がちくりと痛む。
でも、すぐに首を振る。詮索してもどうしようもない。あんな格好良い人、過去に誰もいなかった、0だった・・・なんて事はあり得ない。
違う。
そう思いたい。少なくとも今、この画面の向こうで笑っている紬さんは、自分だけを見てくれている。
そう信じたかった。
プレゼントも、もう決めていた。やっぱり定番としてはアクセサリーかな。指輪? ブレスレット? シャツとか? サイズわからないや。帽子なら大丈夫? 香水とかもあり? ・・・悩んで。悩んで。
紬さんの喜ぶ顔を想像して。
何度も一人で笑ってしまった。誕生日は少しだけ背伸びした店で食事をして。「おめでとうございます」と直接伝えて。プレゼントを渡して、そんな一日が来るものだと、疑いもしなかった。
なのに。
「・・・日程変更って」
結流の口から掠れた声が漏れる。言いながら、自分でもわかっていた。
無理だ。
パリコレのスケジュールを、2人の誕生日デートのために動かせるはずがない。来年じゃ駄目なんですか。そう言いそうになって、言えなかった。
来年。
たった一年。だけど、この業界では大きい。1年露出しなかっただけで、引退したと見なされる事もある。来年には来年、また声をかけられる子達が出てくる。
結流は24歳だ。一般社会なら十分若い。
けれど芸能界では、特にモデルの世界では、もう若手の終盤に差しかかる年齢だって事くらいは知っている。土屋さんが自分のこれからを考えて仕事を組んでくれている事もわかっている。わかっている。わかっているから苦しい。
部屋の空調の音だけが妙に大きく聞こえた。
「フライデーミュージックパレスの切り抜き動画も見たって」
土屋さんが言う。
「え?」
「あの横並びのシルエットに惚れたそうよ」
結流は目を瞬いた。
脳裏に浮かぶ。STELLA-Rootsとのステージ。隣に紬さんがいたステージ。ライトに照らされた巨大な舞台。横一列に並んだシルエット。子供の頃からテレビで見てきたあのインパクトは、今でも健在だ。
あの映像だ。
「もちろん事前にプロフィールも映像資料も送っていたわ。でも決め手はそれだったみたい」
「・・・」
「姿勢を直すために受けてたウォーキングレッスン、覚えてる?」
結流は息を呑んだ。
思い当たる。
女優なのに、何故か事務所がやたら姿勢や歩き方を指導した時期があった。背が高い事で、小さく見せよう、目立たなくしようという意識で、自然に猫背になっているからと言われた。
当時は意味がわからなかった。言われれば、そうだろうなと思っていた。だが、今ならわかる。
「・・・あの頃から?」
「そう」
土屋さんはあっさり答えた。
「準備してたの」
結流は呆然とした。
そんなの聞いていない。
「そんなの聞いてない」
「言ってないもの」
「・・・」
「でも、その長身を活かさないなんて勿体ないじゃない」
土屋さんは当然のように言った。
178センチ。
女優としてはかなり高い。昔からコンプレックスだった身長。それが芸能界では武器だと言われ続けてきた。
けれど。
「土屋さん」
結流は小さく言った。
「私、海外なんて行った事ない」
言った瞬間、別の記憶が蘇る。
パスポート。そうだ。去年作った。海外ロケの可能性もあるからと事務所が費用を全額負担してくれた。
あれも。
今思えば、全部繋がっている。
土屋さんはしばらく黙った。それから真面目な顔になる。
「正直」
その声はいつもより低かった。
「酷な事を言ってると思うわ」
結流は顔を上げた。土屋さんと目が合う。
「女優をしていくと思っていた貴女を突然、今まで経験したこともないファッションショーに送り出そうとしている。それも海外。人種差別は昔より減った。でも、なくなったわけじゃない」
静かな口調だった。だからこそ重かった。
「アジア系なんてね。黒人差別のさらに外側に置かれる事もある」
結流は黙って聞く。
「悪意がない場合も多いの。だから厄介」
土屋さんは続けた。
「差別してる自覚がないのよ」
窓の外では、夕方の光がビルの壁を白く照らしていた。
「カフェでトイレの横の席に通されるなんて定番」
「・・・」
「外から見えるテラス席は使わないでって言われたりね。外から見える所に、アジア人を置いて、あの店にアジア人がいるって言われたくないからよ」
結流の喉が詰まる。遠い世界への憧れが、少しずつ現実の重さを帯びていく。
「そこに」
土屋さんは言った。
「海外経験ゼロ。フランス語もわからない。英語もあやしい」
正直すぎる言葉に、結流は不安になる。でも土屋さんは嘘をつかないように、慎重に話してくれていると思う。
「そんな貴女を放り込もうとしてる」
結流は唇を噛んだ。
怖い。純粋に怖かった。失敗したら。笑われたら。通用しなかったら。そもそも無事に帰って来られるの?
そう考えるだけで胃が縮む。だが。同時に、心の奥が熱くなる。
こんなチャンスは二度と来ない。
「もちろん私も行くわ」
土屋さんが言った。
結流は顔を上げる。
「でも」
続く言葉は予想できた。
「ステージの上までついていくわけにはいかない」
結局、最後は自分一人だ。ランウェイに立つのも。評価されるのも。失敗するのも。
全部、自分自身。
結流は俯いた。膝の上で握り締めた手がまだ震えている。
頭の中に浮かぶのは、華やかなパリの街並みではない。銀色の髪。優しく細められる目。楽しみにしていた誕生日。
紬さん。
胸の奥で名前を呼ぶ。
相談したい。誰よりも。本当は紬さんに聞いてほしい。
怖い事も。
不安な事も。
全部。
けれど、結流はゆっくり唇を噛んだ。相談できない・・・。簡単に明かしていいものじゃないだろうし、紬さんならきっと言うからだ。
『行っておいで』
迷いなく。
笑いながら。
きっとそう言う。
誕生日の約束よりも、会えなくなる寂しさよりも、多分結流の未来を優先してくれる。あの人はそういう人だ。
だから聞けない。
聞いてしまったら、答えが決まってしまう。
行きたくないわけじゃない。
嫌なわけでもない。むしろ、とてつもない話なのだと理解している。
事務所が1年前から準備していた事も何となくわかった。この機会がどれほど貴重なものなのかも、わかっている。
わかっているから苦しい。
モデルになりたいと思った事はない。海外で活躍したいと願った事もない。
地方から都内の大学へ進学した。3年生の時にスカウトされて、迷いながらも話だけは聞いた。でも卒業後は芸能界には入らず、都内の会社へ就職した。それでも土屋さんは時々連絡をくれた。気にかけるように、忘れた頃に。結局、1年で会社を辞めた結流は、その時になって初めて芸能界へ飛び込んだ。
だからこそ戸惑う。
自分が欲しいと願った場所ではない。幼い頃から一直線に目指してきた人達には失礼な話かもしれないが。流されてきた自覚もある。
なのに、その場所が人生を変えるかもしれない。そんな選択肢を突然突きつけられている。
視界が滲んだ。プレゼントはもう決めていた。一緒に食事をして、少しだけ背伸びした店。今度こそ自分がお金を出して、おめでとうございますって言うつもりだった。
そんな未来を疑っていなかった。
なのに今は、パリという、名前しか聞いた事ない、テレビや雑誌でしか見た事のない街が、その未来を簡単に塗り潰そうとしている。
結流は震える指を握り込んだ。
嬉しいのか。
怖いのか。
自分でもわからない。
ただ一つだけ確かなのは、今、この話を聞いてからずっと胸の奥で紬さんの名前ばかりを呼んでいるという事だった。
会いたい。
声が聞きたい。
「どうしたの?」と、いつもの優しい声で聞いてほしい。頭を撫でてほしい。
大丈夫だと笑ってほしい。
何でもない話をして、二人で笑って。そうしているうちに、この胸の苦しさが少しでも軽くなればいいのに。
けれど、それはできない。
この話はまだ外へ漏らせない。仕事の内容は守秘義務がある。たとえ友人でも恋人でも家族でも例外じゃない。だから、相談があると連絡したところで、一番大事な事は話せない。
それでも。
紬さんなら何も言わなくても気づいてしまう気がした。結流が無理に笑っている事も。言葉を飲み込んでいる事も。
全部。
あの人は見抜いてしまうだろう。
だから余計に会えない。
会ったらきっと、泣いてしまう。せっかくの誕生日。記念日の一つになるはずだったのに。そして泣いてしまえば、紬さんは何も聞かずに、ただ隣にいてくれるだろう
そんな人だから余計に甘えたくなる。・・・抱き締めてほしい。子供みたいに弱音を吐いてしまいたい。でも、それをした瞬間、紬さんはきっと、自分より結流を優先する。理由も聞かず、「仕事なら行っておいで」と笑う。その笑顔を想像できてしまうから。
相談できない。
助けてほしい。
でも助けてもらえない。
違う。
助けてもらえないんじゃない。助けてもらったら、前へ行くしかなくなる。
だから怖い。
結流は震える指をそっと握り締めた。
今、一番会いたい人に、一番会ってはいけない気がしていた。
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