第3話 触れられなかった夏
◇
……嘘だろ。
どうして──。
その声が、自分の喉から出たものだと気づくのに、少し時間がかかった。
目の前の少女。
白銀の髪。水面の光を編んだような制服。
静かな瞳。変わらない仕草。
──始めて見る髪の色と、制服。
…でも、それは確かに、俺のよく知っている“あの子”だった。
言葉が出てこない。
胸の奥で、何かが絡まっていた。
息を吸っても、それが肺に届く前に喉で途切れてしまうような、うまく呼吸ができない感覚。
ただ、見つめるしかなかった。
触れてしまえば壊れてしまいそうな、繊細な光の像。
けれど彼女は、そんなこちらの心の渦を知ってか知らずか、ただ静かに佇んでいた。
──千夜。
幼馴染。隣の家に住んでいた。
夏になると、毎日のように川へ行って、素足で水の中を跳ね回っていた。
青空。雲。蝉の声。
川面を飛び跳ねる魚の影。
そんな何でもない風景の中で、千夜の笑い声だけがいつも遠く響いていた。
……それは、忘れるはずのない記憶。
「蒼、あたし、東京行ってみたいな」
「行けるよ、俺が連れてく」
「ほんと? 嘘ついたらぶっ飛ばすからね」
「うそつかないって」
「じゃあ、約束ね」
川辺の小さな石橋の上で、千夜はそう言った。
その時、夕焼けがふたりの顔をオレンジ色に染めていて、何もかもが、まるで映画のワンシーンみたいだった。
それが、最期の約束になるなんて。
あの日の記憶は、ずっと心の奥に封じ込めてきた。
思い出すたびに胸が苦しくなって、後悔と叫びと、届かなかった手の感触が蘇るから。
水の流れは、あの日だけ静かだった。
何も言わず、すべてを飲み込んだ。
ほんの数秒、手を伸ばせば届くと思っていたのに。
ほんの一歩、足を踏み出すのが遅れたせいで──千夜は、戻ってこなかった。
あの時、自分の手が、ほんの数センチでも長ければ。
……そう思い続けた。
だから、走り始めた。
彼女のもとに、もう一度辿り着くために。
届かなかった手に、時間に、声に、指先に──触れるために。
走ることでしか、あの日から前に進めなかった。
スパイクを履いて、スタートブロックに立つたびに。
耳の奥で千夜の声がする気がして、心臓が爆発しそうになるのを誤魔化して。
とにかく、速く、遠くへ行こうとしていた。
でも、今──
その彼女が、目の前にいる。
触れられなかったはずの“死”が、形を持って、自分の前に立っている。
(…一体、どういう……)
疑問より先に、感情が溢れていた。
言葉にならない何かが、胸の中を叩いていた。
このまま叫んでしまいそうだった。
「戻ってきてくれ」って。
「行かないでくれ」って。
けれど、千夜はそんな蒼の心を見透かしたように言った。
「何を呆けてるんだ?」
その言葉が、胸に突き刺さる。
それは、突き放すようでも、責めるようでもなかった。
ただ、無機質な響きだった。
まるで呼吸の合間に置かれた“空気の欠片”みたいに、ひどく乾いていた。
蒼は、唇を動かすことができなかった。
喉の奥で熱くなるものがあった。
言葉にならない感情が、焼けるように積もっていく。
けれどそれをどうやって千夜に伝えればいいのか──分からなかった。
「立てるなら、ついてこい。今はまだ、境界が開いてる」
そう言って、千夜はくるりと背を向けた。
制服の裾が風もないのに揺れていた。
淡い光が、彼女の背中からこぼれる。
その姿は、あまりに現実離れしていて。
けれど、それでも蒼は──追いかけずにはいられなかった。
足が、勝手に動いた。
魂だけの存在であるはずの自分が、現実と虚構の間を走っていた。
「待てよ……っ、千夜! おい!」
声が出た。
追いかける距離はほんの数歩なのに、
なぜだか、彼女の背中が遠い。
「……何が起こってるんだ、これは……!?」
叫ぶように問いかけた。
病室の扉を抜け、灰色の廊下を駆け抜けながら、蒼は千夜の背に向かって何度も呼びかけた。
「お前……本当に……千夜なんだよな?」
「死んだんじゃなかったのか? 川で……あの日……」
「お前の手、もう……届かないって、思ってたのに……っ」
けれど、千夜は振り返らなかった。
ただ、淡々とした声だけが返ってくる。
「死んだよ。あの時、私は確かに“死んだ”。
でも、それがどうした?」
その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
廊下の蛍光灯が、ひとつずつ通り過ぎていく。
色を失った世界の中で、ただその声だけがやけに鮮明だった。
「私は今、《空律庁》の所属だ。
死者の中でも“律”を残された存在は、選ばれることがある」
──空律庁。
それは、夢の中で聞いた言葉。
あの異形の“何か”が語った、“律”と“構文”という語。
「お前は“境界に触れた”んだ。
まだ生死のどちらにも属していない。
だから──選択肢がある」
「選択……?」
「現実に戻るか、こっち側に来るか。
……けど、その余白も、そう長くは保たない」
千夜はようやく、ほんの少しだけ振り返った。
視線が重なった。
その瞬間、蒼の鼓動が跳ねた。
「お前の“名前”が……すでに狙われてる」
「……狙われてる?」
「“名を喰らう”存在が来てる。もうすぐ、こっちにまで干渉が始まる」
──まるで、合図のように。
視界の先、廊下の天井が「ピシリ」と軋んだ。
天井板が歪み、そこから“黒いヒビ”が滲み出す。
「な……んだ、これ……」
そのヒビは音もなく広がっていく。
重力も距離も無視して、まるで空間そのものが裏返るように。
ヒビの向こうから、異形の“何か”がのぞいていた。
──視えた瞬間、世界が“冷えた”。
時間が止まる。
声が凍る。
空気が、ひとつの律を失ったように、よどむ。
「来たな。境界を裂こうとしてる……」
千夜はそう呟いた。
その手には、見たことのない光の札があった。
それを宙に放り上げると、空間に“律”の文字列が浮かぶ。
【隔空・展符結界】
その言葉と同時に、廊下の壁面が光を帯びる。
見えない障壁が展開され、“裂け目”を辛うじて押し返していた。
蒼は言葉を失っていた。
あの裂け目の奥にいる“何か”は、明らかに人ではなかった。
目も、口も、輪郭すらも不定形な存在。
けれど、確かに“こちら”を見ている。
──いや、“名前”を探している。
「逃げるぞ、蒼。ここはもう持たない」
「待て、待て……待ってくれ! 俺は、何も分かってなくて……!」
「だから今、連れてくんだよ」
千夜の手が、蒼の手を掴んだ。
その瞬間、視界が──裏返った。
引き裂かれるような眩しさ。
世界が回転し、重力が反転し、あらゆる“定義”が揺らいだ。
けれどその中で、ただ一つだけ、確かだったものがある。
──千夜の手の温度。
死んだはずの、失ったはずのその手が、
いま、自分の“存在”を掴んでいた。
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