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消滅都市のベッケンシュタイン  作者: 平木明日香
第1章 空の果てへ
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第3話 触れられなかった夏





 

……嘘だろ。

どうして──。


 

その声が、自分の喉から出たものだと気づくのに、少し時間がかかった。


 

目の前の少女。

白銀の髪。水面の光を編んだような制服。

静かな瞳。変わらない仕草。


 

──始めて見る髪の色と、制服。


…でも、それは確かに、俺のよく知っている“あの子”だった。


 

言葉が出てこない。

胸の奥で、何かが絡まっていた。

息を吸っても、それが肺に届く前に喉で途切れてしまうような、うまく呼吸ができない感覚。


 

ただ、見つめるしかなかった。

触れてしまえば壊れてしまいそうな、繊細な光の像。

けれど彼女は、そんなこちらの心の渦を知ってか知らずか、ただ静かに佇んでいた。


 

──千夜。 


 

幼馴染。隣の家に住んでいた。

夏になると、毎日のように川へ行って、素足で水の中を跳ね回っていた。


 

青空。雲。蝉の声。

川面を飛び跳ねる魚の影。

そんな何でもない風景の中で、千夜の笑い声だけがいつも遠く響いていた。


 

……それは、忘れるはずのない記憶。


 

 「蒼、あたし、東京行ってみたいな」

 「行けるよ、俺が連れてく」

 「ほんと? 嘘ついたらぶっ飛ばすからね」

 「うそつかないって」

 「じゃあ、約束ね」


 

川辺の小さな石橋の上で、千夜はそう言った。

その時、夕焼けがふたりの顔をオレンジ色に染めていて、何もかもが、まるで映画のワンシーンみたいだった。


 

それが、最期の約束になるなんて。


 



あの日の記憶は、ずっと心の奥に封じ込めてきた。

思い出すたびに胸が苦しくなって、後悔と叫びと、届かなかった手の感触が蘇るから。


 

 水の流れは、あの日だけ静かだった。

 何も言わず、すべてを飲み込んだ。

 ほんの数秒、手を伸ばせば届くと思っていたのに。

 ほんの一歩、足を踏み出すのが遅れたせいで──千夜は、戻ってこなかった。


 

あの時、自分の手が、ほんの数センチでも長ければ。


 

……そう思い続けた。


 

だから、走り始めた。

彼女のもとに、もう一度辿り着くために。

届かなかった手に、時間に、声に、指先に──触れるために。


 

走ることでしか、あの日から前に進めなかった。

スパイクを履いて、スタートブロックに立つたびに。

耳の奥で千夜の声がする気がして、心臓が爆発しそうになるのを誤魔化して。



とにかく、速く、遠くへ行こうとしていた。


 

でも、今──


その彼女が、目の前にいる。

触れられなかったはずの“死”が、形を持って、自分の前に立っている。


 

(…一体、どういう……)


 

疑問より先に、感情が溢れていた。

言葉にならない何かが、胸の中を叩いていた。

このまま叫んでしまいそうだった。


「戻ってきてくれ」って。

「行かないでくれ」って。


 

けれど、千夜はそんな蒼の心を見透かしたように言った。


 

「何を呆けてるんだ?」



その言葉が、胸に突き刺さる。

それは、突き放すようでも、責めるようでもなかった。

ただ、無機質な響きだった。

まるで呼吸の合間に置かれた“空気の欠片”みたいに、ひどく乾いていた。


 

蒼は、唇を動かすことができなかった。


 

喉の奥で熱くなるものがあった。

言葉にならない感情が、焼けるように積もっていく。

けれどそれをどうやって千夜に伝えればいいのか──分からなかった。


 

「立てるなら、ついてこい。今はまだ、境界が開いてる」


 

そう言って、千夜はくるりと背を向けた。


 

制服の裾が風もないのに揺れていた。

淡い光が、彼女の背中からこぼれる。

その姿は、あまりに現実離れしていて。

けれど、それでも蒼は──追いかけずにはいられなかった。


 

足が、勝手に動いた。

魂だけの存在であるはずの自分が、現実と虚構の間を走っていた。


 

「待てよ……っ、千夜! おい!」


 

声が出た。

追いかける距離はほんの数歩なのに、

なぜだか、彼女の背中が遠い。


 

「……何が起こってるんだ、これは……!?」


 

叫ぶように問いかけた。

病室の扉を抜け、灰色の廊下を駆け抜けながら、蒼は千夜の背に向かって何度も呼びかけた。


 

「お前……本当に……千夜なんだよな?」

「死んだんじゃなかったのか? 川で……あの日……」

「お前の手、もう……届かないって、思ってたのに……っ」


 

けれど、千夜は振り返らなかった。


 

ただ、淡々とした声だけが返ってくる。


 

「死んだよ。あの時、私は確かに“死んだ”。

 でも、それがどうした?」


 

その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

廊下の蛍光灯が、ひとつずつ通り過ぎていく。

色を失った世界の中で、ただその声だけがやけに鮮明だった。


 

「私は今、《空律庁》の所属だ。

死者の中でも“律”を残された存在は、選ばれることがある」


 

──空律庁。


 

それは、夢の中で聞いた言葉。

あの異形の“何か”が語った、“律”と“構文”という語。


 

「お前は“境界に触れた”んだ。

まだ生死のどちらにも属していない。

だから──選択肢がある」

 

「選択……?」


「現実に戻るか、こっち側に来るか。

……けど、その余白も、そう長くは保たない」


 

千夜はようやく、ほんの少しだけ振り返った。


 

視線が重なった。

その瞬間、蒼の鼓動が跳ねた。


 

「お前の“名前”が……すでに狙われてる」

 

「……狙われてる?」

 

「“名を喰らう”存在が来てる。もうすぐ、こっちにまで干渉が始まる」


 

──まるで、合図のように。


 

視界の先、廊下の天井が「ピシリ」と軋んだ。

天井板が歪み、そこから“黒いヒビ”が滲み出す。


 

「な……んだ、これ……」


 

そのヒビは音もなく広がっていく。

重力も距離も無視して、まるで空間そのものが裏返るように。


 

ヒビの向こうから、異形の“何か”がのぞいていた。


 

──視えた瞬間、世界が“冷えた”。


 

時間が止まる。

声が凍る。

空気が、ひとつの律を失ったように、よどむ。


 

「来たな。境界を裂こうとしてる……」


 

千夜はそう呟いた。

その手には、見たことのない光の札があった。

それを宙に放り上げると、空間に“律”の文字列が浮かぶ。


 

【隔空・展符結界】


 

その言葉と同時に、廊下の壁面が光を帯びる。

見えない障壁が展開され、“裂け目”を辛うじて押し返していた。


 

蒼は言葉を失っていた。


 

あの裂け目の奥にいる“何か”は、明らかに人ではなかった。

目も、口も、輪郭すらも不定形な存在。

けれど、確かに“こちら”を見ている。

──いや、“名前”を探している。


 

「逃げるぞ、蒼。ここはもう持たない」


「待て、待て……待ってくれ! 俺は、何も分かってなくて……!」

 

「だから今、連れてくんだよ」


 

千夜の手が、蒼の手を掴んだ。


 

その瞬間、視界が──裏返った。


 

引き裂かれるような眩しさ。

世界が回転し、重力が反転し、あらゆる“定義”が揺らいだ。


 

けれどその中で、ただ一つだけ、確かだったものがある。


 

──千夜の手の温度。


 

死んだはずの、失ったはずのその手が、

いま、自分の“存在”を掴んでいた。


 


  *


 


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