第2話 死者の名、存在の律
◇
カラン……。
小さな風の音が、病室の空気を横切った。
風鈴だ。──まるで誰かが、空間に穴を開けるように、音を一つ落とした。
……おかしい。そんなもの、ここにはないはずだ。
天井のどこにも、窓際のカーテンの先にも、音の出どころなんて見当たらない。
視界は、どこか滲んでいた。
色彩の輪郭が淡く、音の距離感も掴めない。何かが少しずつ、ズレている。
──まるで世界が“コピー用紙の裏側”になったような、妙な鈍さがある。
ベッドに横たわる、自分の体。
心電図のピッ、ピッという音。
隣で揺れる点滴。外れかけたブラインド。
すべてが、現実と夢の狭間で、かろうじて形を保っていた。
どこかで誰かが泣いていた。名前を呼ぶ声も聞こえた。
なのに、それは水中に沈んだように遠く、こちらには届かなかった。
「俺」は、まるで試すように廊下に出た。
扉は開いた。体も動いた。──けれど、足音はしなかった。
廊下に貼られたポスターの文字は滲んでいて、非常口のランプも色が抜けたみたいに頼りない。
まるで印刷ミスみたいに、この世界は何もかも薄っぺらだった。
なのに──空気だけが、妙に生々しい。
温度、重さ、湿度の粒が、確かに肌にまとわりついていた。
時間は止まりかけの時計の針のように、かすかに脈打っている。
進んでいるのか、戻っているのかも分からない。
ただ、一秒ごとに“死後”と“生前”の境界が滲んでいくのがわかった。
(……夢、なのか?)
そう思った、その瞬間だった。
──廊下の向こう。
淡い光の先に、人影が立っていた。
気配は確かに“そこ”にある。だが、視界に映るそれは、光でも影でもなかった。
白銀の髪。月の反射を編み込んだような色彩が、風もないのに静かに揺れている。
動く気配もない。呼吸の音すら聞こえない。
けれど、こちらの存在を明確に捉えていた。
──そして、声が落ちた。
「目が覚めた?」
その響きは、川沿いの風を思い出させた。
静かでやわらかく、少しだけ懐かしい。
けれどそれは優しさではなく、どちらかと言えば遠く儚い雲のような、——掴みどころのない“不確かさ”があった。
「おい、ボーッとしてんな。さっさと行くぞ、“あの世”」
──間。
何か、壊れたような間があった。
その口調はあまりに事務的で、あまりに現実的で、あまりに、軽かった。
死を、魂を、案内を──まるで日課みたいに、何気なく告げてくる。
胸元から差し出された札には、整った文字が印字されていた。
空律庁 東央律域 神奈川律区湘南相 監視担当 第三席──時雨千夜。
その名前を見た瞬間、背骨の奥が冷えた。
目の前の少女は、無表情だった。
ただ静かに、こちらを見ていた。
見慣れない制服に身を包み、肩には幾重もの光のひだをまとい──確かに、“この世”の存在ではなかった。
けれど。
──その目。
その声。
時間が、止まった。
思考が割れた。
血の気が引くとか、心臓が跳ねたとか、そんな描写がチープに思えるほど、
「それ」は、あまりにも非現実で、あまりにも、確かだった。
声が漏れた。自然に。反射的に。
「……千夜?」
自分の声だとは思えない。低く、震えていた。
名前を呼んだ瞬間、時間が止まったようだった。
──いや、違う。ただ静かすぎただけだ。
風も音も、なにもかもが一斉に息をひそめたみたいで、世界が映像のコマを忘れたように、動かなくなった。
けれど、その中で──彼女だけが、生きていた。
目の前の少女。
その銀色の髪が、まるで水の中みたいにふわりと揺れている。
風なんてないのに。不思議と、そんなことが気にならなかった。
千夜は、ほんの少しだけ目を細めた。
それだけで、何か大きなものが動いた気がした。
まるで機械の時計が、止まる前に最後の一回だけチクッと鳴らすみたいな──そんな、静かな合図。
「……私の名前、まだ覚えてたんだ」
低く、静かな声だった。
だけど、その響きは、心の奥にまっすぐ届いてくる。
遠くで聴いた、夕暮れの風の音。夏の匂い。川の音。
その記憶が一瞬でよみがえった。
(あの日……川で……)
思い出したくなかった場面が、勝手に浮かんでくる。
濡れた手。冷たい水。届かなかった指先。
──千夜は、死んだはずだ。
「……嘘だろ。だって……おまえは……」
気づけば、声が震えていた。
その震えは、感情のせいなのか、現実が揺れてるせいなのか、自分でもわからなかった。
でも、彼女はそんな様子をただ見つめていた。
まるで、最初からすべてを知っていたように。




