表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
消滅都市のベッケンシュタイン  作者: 平木明日香
第1章 空の果てへ
6/21

第2話 死者の名、存在の律






カラン……。



小さな風の音が、病室の空気を横切った。

風鈴だ。──まるで誰かが、空間に穴を開けるように、音を一つ落とした。


……おかしい。そんなもの、ここにはないはずだ。

天井のどこにも、窓際のカーテンの先にも、音の出どころなんて見当たらない。


視界は、どこか滲んでいた。

色彩の輪郭が淡く、音の距離感も掴めない。何かが少しずつ、ズレている。

──まるで世界が“コピー用紙の裏側”になったような、妙な鈍さがある。


ベッドに横たわる、自分の体。

心電図のピッ、ピッという音。

隣で揺れる点滴。外れかけたブラインド。


すべてが、現実と夢の狭間で、かろうじて形を保っていた。

どこかで誰かが泣いていた。名前を呼ぶ声も聞こえた。

なのに、それは水中に沈んだように遠く、こちらには届かなかった。


「俺」は、まるで試すように廊下に出た。

扉は開いた。体も動いた。──けれど、足音はしなかった。


廊下に貼られたポスターの文字は滲んでいて、非常口のランプも色が抜けたみたいに頼りない。

まるで印刷ミスみたいに、この世界は何もかも薄っぺらだった。

なのに──空気だけが、妙に生々しい。

温度、重さ、湿度の粒が、確かに肌にまとわりついていた。


時間は止まりかけの時計の針のように、かすかに脈打っている。

進んでいるのか、戻っているのかも分からない。

ただ、一秒ごとに“死後”と“生前”の境界が滲んでいくのがわかった。


 

(……夢、なのか?)



そう思った、その瞬間だった。


──廊下の向こう。

淡い光の先に、人影が立っていた。


気配は確かに“そこ”にある。だが、視界に映るそれは、光でも影でもなかった。

白銀の髪。月の反射を編み込んだような色彩が、風もないのに静かに揺れている。


動く気配もない。呼吸の音すら聞こえない。

けれど、こちらの存在を明確に捉えていた。



──そして、声が落ちた。



「目が覚めた?」



その響きは、川沿いの風を思い出させた。

静かでやわらかく、少しだけ懐かしい。

けれどそれは優しさではなく、どちらかと言えば遠く儚い雲のような、——掴みどころのない“不確かさ”があった。



「おい、ボーッとしてんな。さっさと行くぞ、“あの世”」



──間。


何か、壊れたような間があった。



その口調はあまりに事務的で、あまりに現実的で、あまりに、軽かった。

死を、魂を、案内を──まるで日課みたいに、何気なく告げてくる。


胸元から差し出された札には、整った文字が印字されていた。



空律庁 東央律域 神奈川律区湘南相 監視担当 第三席──時雨千夜。



その名前を見た瞬間、背骨の奥が冷えた。


目の前の少女は、無表情だった。

ただ静かに、こちらを見ていた。

見慣れない制服に身を包み、肩には幾重もの光のひだをまとい──確かに、“この世”の存在ではなかった。


けれど。



 ──その目。

 その声。



時間が、止まった。

思考が割れた。


血の気が引くとか、心臓が跳ねたとか、そんな描写がチープに思えるほど、

「それ」は、あまりにも非現実で、あまりにも、確かだった。


声が漏れた。自然に。反射的に。



「……千夜?」



自分の声だとは思えない。低く、震えていた。


名前を呼んだ瞬間、時間が止まったようだった。



 ──いや、違う。ただ静かすぎただけだ。



風も音も、なにもかもが一斉に息をひそめたみたいで、世界が映像のコマを忘れたように、動かなくなった。


けれど、その中で──彼女だけが、生きていた。


目の前の少女。

その銀色の髪が、まるで水の中みたいにふわりと揺れている。

風なんてないのに。不思議と、そんなことが気にならなかった。


千夜は、ほんの少しだけ目を細めた。

それだけで、何か大きなものが動いた気がした。

まるで機械の時計が、止まる前に最後の一回だけチクッと鳴らすみたいな──そんな、静かな合図。



「……私の名前、まだ覚えてたんだ」



低く、静かな声だった。

だけど、その響きは、心の奥にまっすぐ届いてくる。

遠くで聴いた、夕暮れの風の音。夏の匂い。川の音。


その記憶が一瞬でよみがえった。



(あの日……川で……)



思い出したくなかった場面が、勝手に浮かんでくる。

濡れた手。冷たい水。届かなかった指先。




 ──千夜は、死んだはずだ。




「……嘘だろ。だって……おまえは……」



気づけば、声が震えていた。

その震えは、感情のせいなのか、現実が揺れてるせいなのか、自分でもわからなかった。


でも、彼女はそんな様子をただ見つめていた。


まるで、最初からすべてを知っていたように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ