第1話 風鳴りと白き案内人
風の音がした。
それはきっと、ほんの一瞬の出来事だったのだと思う。
でも、確かに感じた。
地面を蹴る音と、走るための身体が、空気を切り裂く感覚。
ずっとそれだけを追いかけていた。
100メートルという短い直線の、その向こう側に──
誰よりも早く、誰よりも高く、辿り着きたかった。
ブレーキ音。
青信号。
そして、空。
気づいた時にはもう、遅かった。
強烈な光と、耳の奥に響く金属の衝突音。
自分の身体が、宙を舞っていた。
重力も摩擦もない場所を、ただ落ちていく。
痛みは、なかった。
でも、分かっていた。
“事故に遭った”ということは。
世界から、自分の名前が、ほんの少しだけ削り取られたことも。
気づけば、どこにもいなかった。
視界は透き通っていて。
呼吸の感覚もない。
脈もない。
ただ、目の前には──真っ白なベッドに横たわる、自分の姿。
それは、まるで壊れかけたマネキンのようだった。
繋がれた点滴。小刻みに揺れる心拍の波形。
誰かの声が聞こえたような気がした。
でも、それがこの世界の“音”かどうかは、わからなかった。
──ああ、死んだんだ。
そう思った。自然に。
悲しいとも、苦しいとも思えなかった。
ただ、身体の形を失ったこの透明な“視点”だけが、まだ現実のすぐそばに浮かんでいる。
まるで、夢の続きみたいだった。
走ることにしか興味がなかった毎日。
陸上のスパイクと、弾けるようなスタートの感触。
オリンピックの表彰台。
それは現実にしたい「明日」だった。
けれど今、ここには“明日”がない。
──名前を呼ばれている気がした。
「瀬川……蒼……」
それは、耳の奥ではなく、心の“中心”で響いた声だった。
見上げた空には、裂け目があった。
青く澄んだ病院の天井、その向こうに広がる異形の空。
空間が、割れていた。
ひびのような、切り口のような、何かが“めくれ”ていた。
そして、そこから“それ”は降りてきた。
人のような、そうでないような、
歪な輪郭をした、“意思のカタチ”。
「まだだ」
声がした。
「お前は、まだ“名”を失っていない。
まだ“外”には行けない」
問いかけも、叫びも、声にならなかった。
蒼はただ、見ていた。
自分のベッドを、自分の身体を。
そして、その傍らに立つ“何か”を。
「この世界は今、“裂けて”いる。
お前が見ている空の向こう──
そこには、名前のない者たちが、律を食らい尽くそうとしている」
律。
言葉の意味は分からなかった。
でも、心が知っていた。
それは、世界の“構文”。
この現実をこの現実たらしめている、存在の“文法”。
「お前にはまだ、存在の文が残っている。
“まだ誰にも奪われていない”名がある」
その声が消えた時、空の裂け目もまた、静かに閉じていった。
まるで最初から、何もなかったかのように。
──けれど、蒼は知っていた。
あれは“見てしまった”だけの幻ではない。
あの空の向こうには、まだ言葉にならない“敵”がいる。
そして、自分の“名”が、それと関係している。
心臓の音が、遠くから戻ってきた。
脈の感覚が、皮膚の奥に触れ始めた。
でも、自分の魂はまだ、帰っていない。
この身体は、自分をまだ「持て余している」。
どこに行けばいい。
どれだけ走れば、昨日の続きに届く?
スパイクを履いて、再び踏み出せる場所はあるのか?
(──教えてくれよ)
空が、もう一度、ひび割れる気配がした。
でもその時、誰かの足音が病室の外から近づいてきた。
──まだ間に合う。
そう言われた気がして、蒼は、もう一度“今”を見つめ直した。




