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消滅都市のベッケンシュタイン  作者: 平木明日香
第1章 空の果てへ
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第12話 風の音



風の音が過去形で鼓膜を叩く。




目には見えない。

けれど、確実に近づいている。

その感覚が、確かにある。


蝉の声がフェードアウトし、再び盛り上がるまでの間に、

わずかに、空気の“質”が変わっていた。




影が揺れた。

ただ、それだけだったはずなのに──空気の密度が一段階、確かに変わった。


一歩、足を踏み出した瞬間。

蒼は“何か”を越えてしまったような錯覚にとらわれた。

まるで世界そのものの皮膜を、うっかり爪で破いてしまったような──そんな感覚。





ジジジジ…



…ジジジジジジ……ジジ…



蝉の声が遠のいた。


それは音が消えたというよりも、“外側に追いやられた”ようだった。

音という概念が、蒼の存在から外された。

世界の層が一枚、薄く剥がれたのだ。


そして、“それ”はそこにいた。


最初は影だった。

グラウンドに射した蒼の影が、何かを喰むように“ゆらり”と立体化していく。


「……っ?」


言葉が喉奥で止まる。

それは“言葉にできない”というよりも、“言葉がそれを拒絶していた”のだ。

どんな形容も、どんな名詞も──“それ”には触れられなかった。


黒い。

そう、確かに“黒い”のだが、それは色ではなかった。

光を吸収するのでも、闇を纏っているのでもない。


「黒」という言語的な始祖。


すべての色の母胎であり、意味の外側にある濃度。

見る者の認識を飲み込むようにして、影はゆっくりと“立ち上がった”。


ふわり、と。

波紋のように、蒼の足元から天へ向かって。


骨のようなものがあった。

だが、それは有機的ではなく、金属でもない。

液体の硬直にも似た“固定された不定形”が、幾重にも折り重なってその輪郭を形作っていた。


全体の構造は、人の姿に“近い”。

けれど、“近い”だけだ。

重心の取り方も、関節の接合角も、すべてが“違う”。


──それは、“人間”を観察した何者かが再現しようとして失敗した構造。


背には長く伸びた突起。

槍か、骨か、神経か。

それらがまるで世界の“外縁”に食い込むように生えていた。


全身は液体のように艶めきながらも、そこに確かな質量を宿していた。

踏みしめることもできないはずの影が地面に立ち、重力を持っていた。


「……ク……」


言いかけたその瞬間、脳のどこかが焼き切れた。


音が逆流する。

視界の端が崩れる。

重力が、一瞬だけ上方向へ跳ねたような錯覚が走る。


──名が、ない。


思考のどこかで、蒼は直感していた。


この存在には、名がない。

だから呼べない。

呼べないから、記憶に刻めない。


けれどそれでもなお、そこに“それ”はいた。


【クレパス】


あとから脳がそう“名付ける”しかなかった異形。


それはまるで、“名前を必要としない世界”から来た来訪者だった。


構造は変幻する。

脚部は人型を保ちつつ、まるで液体が凝固したような緩やかなねじれを見せていた。

その一歩ごとに、地面の影が広がる。


蒼は動けなかった。


怖かったわけじゃない。

恐怖すら成立しない、“理解”の外側にいるとき、人はただ“沈黙”するしかない。

呼吸を止めたのは自分の意思ではなかった。

呼吸という生命活動が、その空間に“合わなかった”だけだ。


蝉の声は、まだ鳴っていた。


だが、その音はすでに──世界の断面の“向こう”から響いていた。


風が通り過ぎた気がした。

けれど、それは物理的な風ではなく、

「記憶」というフィルムが破かれた瞬間のような、空気の震えだった。


目の前の“それ”は、まるで異なる時空の残響が、たまたまこの世界に引っかかってしまったかのようだった。


名を持たず、

形を定めず、

それでも確かに“存在してしまっている”。


それが、【クレパス】という怪物だった。


蒼の影の縁をなぞるようにして、それはわずかに揺れた。

その動きは、世界にとって“違和”だった。

ただ立っているだけなのに、空間が痛がっているようだった。


「……なんなん、だよ、お前……」


ようやく絞り出したその声すら、“それ”には届かなかった。


クレパスは応じない。

ただ、見ている。

瞳などどこにもないのに、確かに蒼を“注視していた”。


世界がその中心を、“それ”に明け渡し始めていた。


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