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消滅都市のベッケンシュタイン  作者: 平木明日香
第1章 空の果てへ
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第5話 ノスタルジカ





 

コツ、コツ──。


 

薄焼け色の路地を歩く足音だけが、静かに響いていた。


 

透明な空気。

ひび割れひとつない石畳。

遠くで風鈴のような音がして、淡い風が蒼の頬を撫でていった。


 

──この道、知ってる気がする。


 

見たことがあるわけじゃない。

けれど、子どものころに通った通学路の、あの夕暮れの匂いに似ていた。

放課後に駆け出した帰り道。

ランドセルが跳ねて、スニーカーの底が鳴って、雲ひとつない空が見上げるたびに眩しかった。


 

「……ほんとに、千夜なんだよな?」


 

思わず、その背中に問いかけていた。


 

千夜は何も言わなかった。

ただ、まっすぐ前を歩いていた。

揺れる白銀の髪が、光に透けていた。


 

その後ろ姿もまた──

あの頃、川沿いの小道を並んで歩いた幼馴染の記憶に、ぴたりと重なっていた。


 

川原に咲く名前も知らない花。

傾いた太陽が落とす長い影。

二人だけの秘密の近道。


 

「……あたし、東京行ってみたいな」

「行けるよ、俺が連れてく」

「ほんと? 嘘ついたらぶっ飛ばすからね」


 

──あの時、笑っていた千夜。


 

けれど今、目の前を歩く彼女は笑わない。

笑っていないだけじゃない。

表情が、どこか“記号”のように整いすぎていた。


 

(でも……あの頃に見た彼女の目と、同じだった)


 

「……なあ」


 

蒼はもう一度、声をかけた。

自分の心の中のざわめきを、なんとか“形”にしようとして。


 

「俺、お前にまた会いたいと思ってたんだ!

…いつかまた、…夢の中でもいいって…!」


 

その声が震えた。

なんて言えばいいのかわからなかった。

言葉ではそう言えたとしても、本当にまた会えるとは思えなかった。

嘘じゃないんだ。


“会いたい”という気持ちは。



でもそれは俺の願望であって、現実なんかじゃない。

“変えられる“ようなものじゃない。

あの日確かに千夜は死んだ。

忘れたくても、忘れられない出来事だった。

 



千夜はふと立ち止まり、静かに振り返った。

空の色を宿したような瞳が、そっと蒼を見つめていた。


 

「……覚えてるよ」

 

「え?」

 

「全部、覚えてる。

 蒼の声も、夏の匂いも。

 川の音も、空の色も、約束も──」


 

言葉が、空気に溶けた。

風の粒が、その響きを包み込む。


 

「でも、それはもう“過去”の話」



——過去?


そんなこと、いちいち言葉に出すまでもないことだった。

わかりきっていることだった。

 


「私はここにいる。でもそれは、あの日の“私”じゃない」


 

蒼は息を呑んだ。


 

目の前の千夜は、当時の姿とはまるで違う。

俺と同じように成長して、嘘みたいに大人びてて——


その表情も、——声も、子供だったあの頃の彼女とはまるで違った。

別人みたいだった。



…まあ、そりゃそうかって感じでもある。


何年だ?


あれから、もうだいぶ時間が経ってしまった。

 



 *




 まるで男の子みたいだった。


 それは多分、家柄っていうのもあるんだと思う。


 あの頃の彼女は、いつも先を走っていた。

 川沿いの遊歩道、神社の境内、校舎の裏庭。

 どこへ行くにも、俺の手を引いていた。



 「いくよ、置いてくよ!」



 先に行かないで、と言う間もなく千夜は駆け出して、俺は転びそうになりながらその背中を追いかけていた。

 足が遅くて、体も弱くて、いつも風邪ばかり引いていた自分。

 だけど千夜は、一度だって馬鹿にしたり、置いてきぼりになんてしなかった。


 ランドセルを放り投げて、夕焼けの川原で大声で笑っていたあの頃。

 高いところにある柿の実を棒で落として、最初のひとつを渡してくれたときの、ちょっと得意げな顔。

 「蒼はへなちょこだから、あたしが守るんだ」って、小さな肩をそらせていた千夜。



 その笑顔は、太陽の匂いがした。



 ──兄弟みたいだった。

 親友とも、恋人とも、家族とも、違う。

 だけど、きっとどれよりも近かった。


 夜になると、時々熱を出して寝込んでいた俺に、千夜は絵本を読んでくれた。

 男の子が竜に乗って、雲の向こうの国に行く話。

 「大丈夫。夢の中なら、なんだってできるよ」って、そう言ってくれた。


 夢の中なら。

 ──そう、夢の中なら。



 誰よりも輝いて見えた。


 それは多分、——きっと偶然なんかじゃなくて。


 どんな時も前を見てたんだ。

 少なくとも、俺は彼女からそう教わって生きてきた。

 思うように走れない日も、道端の石につまづきそうになった時も。



 ずっと。


 


 *


 

終わったことに、続きを求めることはできない。

けれど──


 

「……俺さ」


 

蒼は、もう一歩だけ近づいた。


 

「…お前にもう一度会えたら、そんな嘘みたいなことが起こったら…」



その続きの言葉が、すぐには出てこなかった。


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