第5話 ノスタルジカ
◇
コツ、コツ──。
薄焼け色の路地を歩く足音だけが、静かに響いていた。
透明な空気。
ひび割れひとつない石畳。
遠くで風鈴のような音がして、淡い風が蒼の頬を撫でていった。
──この道、知ってる気がする。
見たことがあるわけじゃない。
けれど、子どものころに通った通学路の、あの夕暮れの匂いに似ていた。
放課後に駆け出した帰り道。
ランドセルが跳ねて、スニーカーの底が鳴って、雲ひとつない空が見上げるたびに眩しかった。
「……ほんとに、千夜なんだよな?」
思わず、その背中に問いかけていた。
千夜は何も言わなかった。
ただ、まっすぐ前を歩いていた。
揺れる白銀の髪が、光に透けていた。
その後ろ姿もまた──
あの頃、川沿いの小道を並んで歩いた幼馴染の記憶に、ぴたりと重なっていた。
川原に咲く名前も知らない花。
傾いた太陽が落とす長い影。
二人だけの秘密の近道。
「……あたし、東京行ってみたいな」
「行けるよ、俺が連れてく」
「ほんと? 嘘ついたらぶっ飛ばすからね」
──あの時、笑っていた千夜。
けれど今、目の前を歩く彼女は笑わない。
笑っていないだけじゃない。
表情が、どこか“記号”のように整いすぎていた。
(でも……あの頃に見た彼女の目と、同じだった)
「……なあ」
蒼はもう一度、声をかけた。
自分の心の中のざわめきを、なんとか“形”にしようとして。
「俺、お前にまた会いたいと思ってたんだ!
…いつかまた、…夢の中でもいいって…!」
その声が震えた。
なんて言えばいいのかわからなかった。
言葉ではそう言えたとしても、本当にまた会えるとは思えなかった。
嘘じゃないんだ。
“会いたい”という気持ちは。
でもそれは俺の願望であって、現実なんかじゃない。
“変えられる“ようなものじゃない。
あの日確かに千夜は死んだ。
忘れたくても、忘れられない出来事だった。
千夜はふと立ち止まり、静かに振り返った。
空の色を宿したような瞳が、そっと蒼を見つめていた。
「……覚えてるよ」
「え?」
「全部、覚えてる。
蒼の声も、夏の匂いも。
川の音も、空の色も、約束も──」
言葉が、空気に溶けた。
風の粒が、その響きを包み込む。
「でも、それはもう“過去”の話」
——過去?
そんなこと、いちいち言葉に出すまでもないことだった。
わかりきっていることだった。
「私はここにいる。でもそれは、あの日の“私”じゃない」
蒼は息を呑んだ。
目の前の千夜は、当時の姿とはまるで違う。
俺と同じように成長して、嘘みたいに大人びてて——
その表情も、——声も、子供だったあの頃の彼女とはまるで違った。
別人みたいだった。
…まあ、そりゃそうかって感じでもある。
何年だ?
あれから、もうだいぶ時間が経ってしまった。
*
まるで男の子みたいだった。
それは多分、家柄っていうのもあるんだと思う。
あの頃の彼女は、いつも先を走っていた。
川沿いの遊歩道、神社の境内、校舎の裏庭。
どこへ行くにも、俺の手を引いていた。
「いくよ、置いてくよ!」
先に行かないで、と言う間もなく千夜は駆け出して、俺は転びそうになりながらその背中を追いかけていた。
足が遅くて、体も弱くて、いつも風邪ばかり引いていた自分。
だけど千夜は、一度だって馬鹿にしたり、置いてきぼりになんてしなかった。
ランドセルを放り投げて、夕焼けの川原で大声で笑っていたあの頃。
高いところにある柿の実を棒で落として、最初のひとつを渡してくれたときの、ちょっと得意げな顔。
「蒼はへなちょこだから、あたしが守るんだ」って、小さな肩をそらせていた千夜。
その笑顔は、太陽の匂いがした。
──兄弟みたいだった。
親友とも、恋人とも、家族とも、違う。
だけど、きっとどれよりも近かった。
夜になると、時々熱を出して寝込んでいた俺に、千夜は絵本を読んでくれた。
男の子が竜に乗って、雲の向こうの国に行く話。
「大丈夫。夢の中なら、なんだってできるよ」って、そう言ってくれた。
夢の中なら。
──そう、夢の中なら。
誰よりも輝いて見えた。
それは多分、——きっと偶然なんかじゃなくて。
どんな時も前を見てたんだ。
少なくとも、俺は彼女からそう教わって生きてきた。
思うように走れない日も、道端の石につまづきそうになった時も。
ずっと。
*
終わったことに、続きを求めることはできない。
けれど──
「……俺さ」
蒼は、もう一歩だけ近づいた。
「…お前にもう一度会えたら、そんな嘘みたいなことが起こったら…」
その続きの言葉が、すぐには出てこなかった。




