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scene1 : 雨戸を開ける朝

 雨戸の木目に指をかけ、引く。


 晩夏の山の冷気が食堂に流れ込んだ。杉と土と、どこかで焼けた炭の匂いが混ざっている。築四十年の宿「雨屋」は常にどこか湿っている。雨が多い峠の手前で、雨宿りの宿として始まった場所だから、名前の通りといえばその通りだった。


 窓から差す光が、食堂の長テーブルの表面を斜めに切り取っている。三人で使うには大きすぎるテーブルだった。先代が十人分の食事を想定して据えたものを、ヨルが買い取ったときそのまま残した。動かすのに三人要る。捨てるにも三人要る。面倒だったので残した。


 井戸に向かう。


 つるべの綱は手に馴染んでいる。引き上げるとき、体の軸がぶれない。戦場で槍を振るっていた頃の体の使い方が、水汲みにも出る。ヨル自身はそれを意識していない。桶に汲んだ水に手を浸す。山の水は晩夏でも冷たい。指先が痺れた。ちょうどよかった。


 厨房に戻り、火を起こす。鍋を温め、前日に捏ねておいたパンの生地を竈に並べる。小麦と酵母の匂いが立ちのぼる。パンが焼けるまでの時間は、修繕の時間だった。


 宿を一周する。


 これが朝のルーティンだった。食堂の壁、廊下の床板、二階の客室の窓枠、裏手の井戸の石組み。指先で触れながら歩く。漆喰が剥がれかけた箇所は粉が指につく。釘の頭が浮いている床板は踏んだときに音が変わる。窓枠の木は湿気を吸って膨らんでいるか、乾いて隙間ができているか。


 北側の壁に新しいひびを見つけた。


 呼吸が変わった。深くもなく浅くもなく、ただ安定する。ヨルは食堂に戻り、棚から漆喰の袋とヘラを取り出した。竈のパンは、もうそろそろ裏返す頃だった。


 ヨルは壁に向かった。


 ひびの深さを指で確認し、漆喰を練り始めた。水を少しずつ加え、粘りが出るまで混ぜる。多すぎれば垂れ、少なければ付かない。この加減が好きだった。好きという言葉が正しいかどうかは分からないが、少なくともこの作業をしているとき、手は正確に動き、頭は余計なことを考えない。


「パン焦げるよ」


 起きたばかりなのか、眠たげなナギの声が廊下から飛んできた。ヨルは壁のひびにヘラを当てたまま一瞬止まり、ひびの端まできっちり漆喰を押し込んでから厨房に走った。


 ナギが竈の前に立っていた。パンはもう片面が黒くなっていた。


 ナギは何も言わず、焦げたパンの面を切り落とし始めた。手際が良い。焦げていない部分はまだ食べられる。ヨルが「すまない」と言うと、ナギは「謝るなら壁を後にして」と素っ気なく返した。


 パンを食卓に並べてから、ヨルは屋根の点検に上がった。


 北側の屋根は特に傷んでいる。板が反り、釘が錆びて浮き、瓦を支える桟木が湿気で腐食しかけている。峠側から吹きつける雨と雪を何十年も受け止めてきた面だった。ヨルは板を一枚ずつ踏んで確認しながら北側に向かった。


 足元の板が鳴った。


 いつもとは違う音だった。湿った木が体重に耐えきれず軋む、あの嫌な音。ヨルが足を引こうとした瞬間、板の下の梁が折れた。


 屋根材が崩れる。太い梁がヨルに向かって落ちてくる。腐食した断面が白く露出し、乾いた木屑が舞った。


 ヨルの右手が梁を掴んだ。


 考える前に右手が梁を受け止め、左手が残った桟木を掴んで体を支えていた。二人がかりで運ぶような材木を、片手で止めている。足場は崩れかけの屋根の上で、体勢は最悪だった。それでも落ちなかった。


 下から声がした。


「……重い?」


 クルミだった。菜園仕事の途中らしく、爪の先に土が入り込んでいる。雨屋に残った先代の娘は、ヨルが梁を片手で止めているのを見ても、目を丸くしなかった。


「少し」


 ヨルは答えて、梁を持ったまま周囲の構造を確認した。桟木の残っている部分に梁を預ければ、仮止めできる。工具は腰に差したままだった。


 釘を打つ。


 崩落事故から仮止めの作業に移るまで、十秒もかかっていない。梁を支え、添え木を噛ませ、釘を三本打ち込む。腕が震えない。梁を受け止めたときの衝撃は相当だったはずだが、ヨルの手は修繕の工程に入った瞬間から安定していた。


 クルミは下から黙って見ていた。


 屋根の上から、峠が見えた。東に連なる山脈の稜線が朝の光に白く光っている。峠の向こうが東部戦線だった。街道は峠を越えて東部諸邦へ続いている。かつては交易路だったが、今は軍の物資を運ぶ車輪の轍が深く刻まれている。


 西に目を転じれば、緩やかな丘陵が王都方面へ続く。集落の全景が見えた。農家が数軒、ガルツの鍛冶場が一軒。鍛冶場から鉄を打つ音が遠く響いている。その音の向こうに、石畳を打つ別のリズムが聞こえた。トウマの杖だった。退役老兵の朝の巡回。片足が悪いのに毎朝欠かさない。


 ヨルは視線を屋根に戻した。


 仮止めした梁の状態を確認し、周囲の板の腐食度を指で触って確かめる。全面的にやり直す必要があった。板を剥がし、梁を入れ替え、防水の処理をして、新しい板を打つ。それだけの資材が要り、それだけの時間がかかる。


 しかし修繕する場所がある、ということだった。


 屋根から降りて、昼の仕事に移る。食堂の掃除、客室の点検、裏手の薪割り。客はいなかった。戦争で街道の通行量が減り、客足は目に見えて落ちている。それでも宿は営業していた。客が来なくても、掃除はする。クルミがそう決めている。


 夕方、もう一度修繕箇所を確認して回った。朝に塗った壁の漆喰は乾いていた。仕上がりを指で触る。段差がない。呼吸が安定する。


 道具を片付けた。


 ヘラを洗い、漆喰の袋を閉じ、釘箱を棚に戻す。手が空になる。ヨルは工具を持たない手を開閉した。宿を巡回して、他に修繕すべき箇所がないか確認する。北側の屋根の仮止めは明日やり直す。壁の漆喰は乾いた。窓枠はまだ手をつけていない。明日やれる。


 夜、布団に入った。


 暗い部屋の中で、ヨルは手を握り、開いた。握り、開いた。何度か繰り返してから、やめた。


 手が何かを探していた。ヨルはそれを知っていたが、名前はつけなかった。


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