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「七夜語り」  作者: 高領 つかさ(TSUKASA・T)
「七夜語り」

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6/16

三夜  赤鬼――前夜





 雪洞の灯が庭に影を生み出す。ゆるりと生まれる影は、初めから其処に座っていたのか、あるいは影が投掛けられたときに生まれたものか。

 橿原が品の良い笑顔を向けて、縁側に座る童女に対していう。羊歯に落ちる闇、白く輝く岩肌。腰掛けて白に指を滑らせる橿原の低くて不可思議な響きの声。

「さて、今宵は何にいたしましょうか?あら、昨夜のお話は座りがわるくてきらいとおっしゃるのですか?それは困りましたこと。けどねえ、あれはあれで、あったことをそのままでございますからねえ。引いても足してもおりませんもの。座りが悪くても仕方が無いというものですよ。結末をきっちりおさめるなんて、できませんものねえ。なかなか、現実にあるお話では、きちんとした結末なんてつきにくいものですよ」

ああ、さて、では今宵は如何いたしましょうか、と首を傾げる橿原の。

 向かいで、童女が円らな黒瞳をきちんと橿原に向けている。

「あら、そうですね。では今度は、ぼくがちいさかったころのお話をいたしましょうか。きちんと結末がついたお話がご所望でございますものね?当時は唯々、不思議なお話でございましたけれど、それがいまになりまして、ある種の解決と申しますか、一種の結末がついたお話でございます。ええ本当に、子供時代のことだけでしたら、解決のつかない、糸の切れた凧のように行方の知れないお話でございましたけれど。多分これでしたら、お気持に適うかもしれませんよ」

ええと、と橿原が首をかしげた。

「すこし、まってくださいましねえ。随分昔のことでございますから、――――ええ、あれはもう、半世紀も前のことになるのかしら。ぼくがまだ、五つになろうかというときでございましたから。ええ、そういうことになりますねえ。あらいやだ、月日の経つのははやいですこと」

ゆったりと笑んで、橿原が不思議な闇を抱く黒瞳を細めた。

「ええ、随分と前のことでございますよ。ですから、――記憶に関しては、いくらか曖昧な処がありましてもゆるしてくださいね?ええ、本当に、もう随分前のことでございました。それでも、ねえ」

不思議な抑揚の声が、ゆっくりと庭をわたっていく。

「最近になって、あのときの事件が解決のつきました折には、――――ええ、随分と鮮やかに思い出したものでございますよ。ええ、ほんとうにあざやかに。ひとというのは、おかしなことに、随分と忘れないものでございますねえ。本当に、忘れないものです」

あざやかに、記憶に残ってございますよ、と橿原が微笑む。

「あかおに、って御存知ですか?文字通り、赤い鬼、でございます」

風が、ゆっくりと庭を通り雪洞の灯を微かに揺らした。





 あれは、そう冬のとばぐちといった処でしたかしら。木枯らしの吹き始める、容赦の無い冬が訪れる頃でございました。

 ぼくが住んでおりましたのはね、当時もいまも東京でございますけれど、当時はそう、理由は忘れたのですが、父親の住む屋敷にではなくて、別の処に住んでおりましたのを憶えています。

 あら、驚かないでくださいな。ぼくにだって父親くらいおりますよ?それはもう生きてはおりませんけれど、何れにしたって生まれてきました以上、両親というものはあるものですからね。一緒におりますかどうかはともかく。ぼくだって人間なのですから、木の股から生まれはいたしませんよ。そんな意外そうなお顔をされますと傷つきます。 

 酷いですねえ。

それはそうと、ぼくは当時、父親と暮らしてはおりませんでした。時々会いはしましたけど、ぼくの方はいつも家を幾つか移っていたのを思い出しますよ。母もおりましたが、あまり一緒にはおりませんでした。ぼくは何時も幾人かの乳母ややねえやと一緒に幾つかの別荘や家を移っては暮らしていた記憶がございます。

 どうしてですって?さあ、実はぼくにもよくわからないのですよ。あの頃の記憶というのはぼんやりしていて。おうちを移るのも、そういうものだとおもって暮らしておりましたから、たずねることもいたしませんでしたしねえ。唯時折、どうしてまた、目黒のおうちから、市谷のおうちにうつるの?とかばあやたちに聞いてはいましたけれど。その度に答えが、あちらのおうちで梅が咲きましたから、とか、あちらのおうちで木蓮が咲きましたから、とかいったものでしたので、ぼくはこども心におうちというのは、季節によって、―――花が咲くに連れて移るものなのだと思い込んでいましたよ。

 そうでないのを知ったのは、あれはいつでしたでしょうねえ。随分と驚いたものですよ。咲いていた花が散るのに、別のお屋敷に行かなくてもいいのだと知ったときにはね。

 ああさて、脱線しましたねえ。

 ともあれ、ぼくが今回のお話に出会いましたのは、まだおうちというのは、花と共に移るものだと思っていた頃の事でございます。

 木枯らしの吹く季節には、一体何の花が咲くから移るのか、ですって?

 はい、教えてあげましょう。

 でもそれは後程に。ええ、先にお話を進めましょうね。

 随分脱線してしまいましたもの。

 ぼくは、ですからおうちのひとつになる庭に、一人で遊んでおりましたよ。ええ、一人でした。

 家の中にはねえややばあやがおりましたから、本当に一人ではきっとなかったのでしょうねえ。一人遊びのつもりでも、庭を見守っているひとが必ずいたようでございますよ。もっとも、当時はそんなこと意識もしておりませんでした。

 ええ、きっと、あたりまえでしたのでしょうからねえ。気にしてもおりませんでしたよ。ぼくとしては、すっかりひとりで遊んでいるつもりでしたのです。

 庭に大きな冬枯れをした木蓮の木があって、ぼくはその根元で遊んでました。木切れでしたか、木の葉でしたか。そんなものをおもちゃにして、随分と遊んでいたことをおぼえています。何をしていたのでしたか。

 熱心にあそんでおりましたねえ。

大きな人影が、左後ろに立ちましたのを見たのは、そのときでございました。

 ぼくが影のある方をみあげますと、大きなひとが立っていた。そうおもったのですけれど。あわててかけつけた乳母やとねえやに、ぼくは攫い込むようにして抱き上げられて、あっというまに木から遠ざけられてしまいました。目をみはっているうちに、でございますからねえ。やはり、見張っていたのでしょうねえ。一人遊びではなかったのでしょう。

 ぼくは慌てたねえやたちから、しばらくおうちの中で遊ぶようにといいつかってしまいました。少し困りましたけど、ね。ねえやたちが本当にこまったかおをしていうものですから、ぼく、なかで遊ぶことにいたしました。ねえ、本当に困ったかおをしていたのですもの。

 え、なにがこまったのですって?

 いやですねえ、鋭い方ですこと。

実はその頃、ぼくは木の傍で遊ぶのが大好きだったのです。大きな木が大好きでした。木の葉や棒を使って遊んでいるのですけどね。朝も一緒に遊ぼうと木と約束してたのです。けれどねえ。ぼく、硝子越しに木蓮の木を眺めて、ここからあやまったらゆるしてもらえるかしら、と考えてました。

ねえやたちはとても神経質になっていて、ぼくをけして縁側から先にさえ出してくれなかったのですよ。実際縁側処か、あのおりは寒さと風をしのぐ為に、雨戸との間に硝子戸が入っておりましたから、締め切った硝子の向こうから木に謝るしかありませんでした。

遊べなかったのはとても残念でございましたよ。

木枯らしは一掃寒くなって参りまして、あまり寒ければそれもまた外には出してもらえませんものねえ。遊べる日はもともとすくないものですから、ぼくはとても残念でございました。でも、ねえやたちを困らせたくはありませんし。

みな、とてもやさしいひとたちでしたからねえ。

ぼくは、木をながめて縁側に置かれました椅子に座ってました。硝子戸は腰板の部分からは外が見えませんから、ぼく、椅子に座ってお庭をながめていたのです。椅子にいくつもお座布団を重ねましてね。ぼくの背でも庭が眺められるように、乳母やたちが工夫してくれていました。テーブルにはおもちゃがありましたけど、ぼく、はやくお外に出たくて仕方ありませんでしたよ。庭ばかり眺めておりました。

冬枯れの庭でございましたねえ。

それほど広いお庭ではございませんでしたけど、木蓮の他に、つばき、竹を編みました垣根に枝折り戸と、ひっそりとしてはおりますが良い庭でございました。

そういえば大きな影は、枝折り戸とつばきの低く植えられました辺りからあらわれたのでございました。つばきの後ろにでも隠れていたのかもしれません。

さて、ねえやたちからいつか遊ぶのをゆるしてもらえないかしら、とぼくは待ち続けていたのですけど、なかなかゆるしては貰えませんでした。

ぼく、待っていては何にもならないんだって学びましたのは、このときのことになるとおもいますよ。ええ、黙って待っていても報われることはないということをね。

ええ、本気でございますとも。おとなしく待っていたのでは、何も起こらないということをぼくはこのとき学んだのです。

だって、ねえやたちは全然ゆるしてはくれませんでしたもの。

いつまでも、唯待っていては駄目だということがよくわかりました。

あら、それがいまのわたしを造っているのですかって?ええ、勿論ですとも。いまのわたしがありますのは、待つことをやめたからでございますよ。

ええそれで、このときのわたしはどうしたのですかって?

わたし、決意したのですよ。

待つのはやめました。それは、ねえやたちは大切ですけれど、木もとても大切でしたのです。もうすぐもっと冬はさむくなります。そうなりましたら、木というのは寝てしまって、次にこの家に来るときまで、遊ぶことは出来なくなりますもの。それに、いくつか家を移りますうちには、またその家に行くことのなかった家もございます。

このお庭の木蓮と、またあえますのはいつのことか。

ですから、ぼくは庭に降りて木蓮にあいさつをすることにしたのです。

さて、そうするとなりますと、問題になるのはいつどのようにして庭に降りるかということでした。あら、難しく考えすぎるっておもいます?

でもねえ、ぼくが庭を眺めておりますでしょう。そのときには、必ず遊びの相手をしてくれたり、針仕事をしていたり、そうしたねえやが必ずひとりは傍にいたのでございますよ。ええほんと、大袈裟でございましょう?こどもひとりを相手に、何をしていますものやら。

昼間はそのようでしたし、三度のごはんは勿論でございます。お食事のときには三人がついていたとおもいます。お給仕をしてくれるねえや、作法をおしえてくれて、お食事をするのをたすけてくれる乳母や、細々とした世話をしてくれるねえやです。

ぼく、おぼっちゃまでしたのですねえ。

夜は、おはなしを読み聞かせてくれますねえやがいて、蚊帳のそとにはいつも人がいたようでした。

困りました。どうしたら木とお話ができるかしらとなやんでおりましたよ。

あそべないのでしたらねえ。

木が眠ってしまう前に、お話だけでもしたかったのです。

そうこうしている内に、風は冷たくなって参ります。今度のようなことがなくとも、いつもお家の中に閉じ込められる季節がすぐにも到来いたします。

空は青く澄んでおりました。こわいくらいに遠くまで澄んでおりましたねえ。筋雲が白く刷毛のように青空に彩りをくわえておりましたよ。風の天高く空を舞う、その舞うさまがみつめられるような冬空でございました。ぼく、空をみるのが好きでしたのです。

あら、いえ、いまも好きでございますね。

オフィスの唯一良い処は、空が見渡せることですもの。閉じ込められるのは好きではありませんから、ぼくとしては本当は仕事場はもうすこし自由な感じの方が好きなんですけど。いまもむかしも、ひとが周囲からいなくなるということがないのですよねえ。

いけませんね、脱線いたしました。

さて、ぼくは木とお話をするために、何とかすることにいたしました。ああそう、このころは、ぼく、ひととお話するのは、ねえやや乳母やとでしたから、勿論ひとのお友達というものがありませんでした。同い年の方とお話するっていう機会が、このころまでは殆どありませんでしたのですよ。ですからね、やさしいねえやや乳母やたちにはわるいのですけれど、ぼく、自然と大きな木とか、おもちゃとか、そうしたものをお友達にして話し掛けておりましたよ。こどもは、そうしたものなんですってね。いろんなものと、お友達になるのですね。

ねえやたちはやさしかったですけれど、お友達ではありませんものね。

あら、ぼくがどうした工夫をしたかというお話でしたね。ぼくはですから、当時の大切なお友達に会う為に、工夫することにしたのでございます。

どのような工夫ですって?

あら、そのようにきいていただけますとはずかしいですけど、本当に工夫といったものではございませんでしたからね。お手水はおわかりになります?ええ、御不浄でございます。きれいな話ではありませんけど、そのころ、その家のお手水は庭に向けた角にございました。少し細い廊下を伝って、母屋からまいります。もちろん、そのときにもねえやがひとりついてくることになっておりました。ええ、必ずひとりにはならないようになっておりましたのですよ。五つにもなろうというのに、お手水にねえやがついてくるなんて恥ずかしいですけど、このころはこれがあたりまえでございましたねえ。ですからともかく、ぼくとしては、それでもこのときに何とかするのが計画でしたのでございます。

ええ、このときねえやはひとりになりますものね?三人より一人の方が機会がすこしは増えますでしょう?それに、戸を隔てましてとはいえ、ぼくがひとりきりの空間にいることになりますのは、このときだけです。

ですからね、ぼく、お手水にいきたいといって、午時が終りましてしばらくしたころに、ねえやにお願いしました。ええ、お午食が終りましたあとしばらくは、何ともいえない倦怠感がございましょう?とろりとした空気ともうしますか。その頃合を計って、ぼくはねえやにお願いしたのでございます。

あら、随分と悪知恵が働くなんていわないでくださいな?ぼくとしては、うまくいかせるにはどうしたらいいか、それは知恵をしぼってのことでしたもの。それでも四才でございますからねえ。大した知恵ではありませんでしたのですけど。

ともかく、ぼく、お手水にねえやとともに参りました。ねえやも、いいお天気によい加減で、お午も食べたあとでございますから、すこしあくびなどをしておりました。本当にねえ、いい天気でございましたよ。空が大層青うございました。

さて、想像されている通りでございます。ぼくは、外へ出る為に、まず壁の向こうのねえやの気配に耳をすましましてから、そうっと行動をはじめました。お手水の蓋を壁に立て掛けまして、庭に向けている窓にむけてよじのぼったのでございます。

ええ、工夫なんていいましてもはずかしいと申しましたでしょう?

それでも、当時の一生懸命の工夫ではございましたよ。

ぼくはそうして、高いところにあります窓枠に、どうやらしがみつくことができました。どうしてやりましたものですかねえ。なんとか頑張って、としかいうことはできませんよ。本当に唯あがいて、でもあんまりながいとねえやが気がつくかもしれませんでしょう?それに、大きな音ひとつ立てても外にいるねえやに気付かれますし。ぼくとしても気が気ではなかったのですけれど、そのうち木枠につかまることに全神経を集中しておりました。ええ、四才のちいさな身であの窓枠まで辿り着きますというのは、それは大層な難事でございましたよ。ちいさな指に全神経を集中させて、必死でつかみましたものです。それから窓枠に身をひきあげた力といいますのは、――――何処からきたものでございますか。そのときには、目的の木にあいますということも忘れ、目の前の、木枠によじのぼるという一事に夢中でございましたよ。ええ、そうでなくては登れたものでございません。

あら、それにしても、本当に頑張ったものでした。

何とか、ええなんとか木枠に身を乗せたときのことは憶えておりますよ。不意に見えている空が近くなって、それから、ええそれからぼくは、庭の垣根と草木をみて。

くらりと、天がゆれるようにおもいましたのは、それはぼくの方が頭から落ちていたからでしたのですねえ。

ええ、木枠にどうにか身体を乗せたのはいいのですけれど。その次の瞬間、ぼくの身はきれいに頭から地面にむけて落ちておりました。身を庇う暇もありませんでしたよ。

草が近くに迫るのが見えた、とおもいました。

地面の色までもよく憶えておりますよ。

ちょっと暗い色でしたねえ。ぼく、あそこに頭をぶつけるのかしら、と考えていたのを憶えております。頭を下に、ねえ、きれいに落ちていきました。

ですからねえ。

それからあとの記憶が、とんでいるのではないかとぼく思うんですよ。

どうしたのですって?ええ、ぼくが気がつきましたのはね、木蓮の木の下でございました。ええ、目が覚めましたら、木蓮の下に座っていたのでございます。両足を前に向けて、まるでお人形のようにちょこんとすわっていたそうでございますよ。これは、ぼくの姿を見つけました乳母やが、あとで教えてくれたことでございますけれどね。

ぼく、目を丸くしました。ええ、だってぼく、お手水の窓から落ちたところでしたのに。どうみても、すぐの処に木蓮があるのですもの。気を失っている間に、誰かに運ばれたのかしらと思いました。それがどうかも、ぼくはおぼえていなかったのですけれどね。

それともあたまをぶつけたから、しらないうちに自分で歩いてきたのかしら、と考えたことを憶えています。あたまをぶつけたら、そういう風にへんになってしまうことがあると、教えられていたのです。ですから、あたまをぶつけちゃいけませんよ、と乳母やが前に教えてくれてたんですの。

ぼく、でもあたまが痛くはありませんでしたし、こぶもできてはいないようでした。木蓮の傍にすわって、それから、機会をいかすことにいたしました。

ええ、考えていても仕方ありませんもの。少しでも機会を生かすのが、そのときのぼくにできることでございましたよ。それに、時間がないのはわかっておりました。

ねえやのひとりが庭を見れば、すぐにわかってしまいますもの。狭い庭でございますものね。

木蓮の木は、冬に備えてもうとてもねむそうでした。ぼくは、最初に木にふれて遊べなかったことをあやまって、それから、いくつかおはなしをしました。

もう本当にねむそうでしたよ。

それでも、木蓮はぼくのおあいてをしてくれました。手をあてて、おはなしをして、ぼくはそのうちねむくなってしまいました。まぶたがおりて参ります。

ゆっくりと、ねむけが襲って参りまして、ぼく、ことりとねむりに落ちてしまいました。

木の傍にありますのが、とても安心でございましてね。本当に如何してだか、ぼくむかしから、木というものが大好きでございましたよ。

みつけた乳母やたちは、気が遠くなる思いだったそうでございますよ。お手水の前にいましたねえやが先に気付いて、ほかの乳母やたちも呼んで騒ぎになって。ぼくが脱出しました細工、といっても蓋を壁に立て掛けて足台にしただけのことでございますけど、などをみつけて大騒ぎになっていたようでございます。なにやら、お手水の外に、草の踏みつけにされたようなあとがあって、ぼくが落ちたのではないかと騒ぎになりましたとか。それから何処へと探しましたら。ねえやのひとりがいいますことには、ぼくをお手水からいないといって騒ぎ出しましたころには、木蓮の根元にはぼくはいなかったそうなのでございます。

ええ、ぼくがよく木をみておりましたから、ねえやも反射的に木を、庭をみたというのですね。けれど、そのときにはいなかったというのです。

そうして、みなでさわいで、どうしようかというときになってふと見たら、―――ええ、そこに、見たときにはいなかったはずの其処に、ぼくが寝ていたというのです。

胆が消えたといわれましたよ。乳母やに、大層怒られました。

はい、反省いたしましたよ、ええ。とても反省いたしました。

でもねえ、ぼくとしては、木蓮のねてしまう前にお話もできましたし、確かに窓枠から落ちたとは申しましても、あたまにこぶも出来ておりませんでしたし。土汚れもなかったことは、ねえやが確かめて話してくれました。どこかわるくしてはいないかと、ねえやたちは大変な騒ぎでしたけど。どこも打ってもわるくもしてもいないことは、ちゃんと確かめてくれました。

それはそれで、とても不思議なことでしたけれど。

ねえやたちに大層釘をさされて、でももう木とお話もいたしましたし、それからお庭に出ずにお家にいるように諭されても、ぼくは構いませんでした。もうお外に出なくちゃいけないということはありませんでしたもの。

ええ、すこし淋しくはございましたけれどね。風が一層強くなって、木枯らしの吹く季節が本当に始まろうとしていました。こんなときには、おうちの中で、ねえやたちのいうとおりに暖かくしているのも悪くはございません。ぼく、それにもともと、結構家の中にいるのもきらいではなかったのですよ。ええ、本当に。

そうしてぼくは、おうちの中でおとなしくしておりました。木蓮の根元にいつのまにかいた不思議な出来事も、もうすっかり忘れていた頃でした。

 ねえやたちも、安心しておりましたでしょう。それきり、奇妙な出来事はひとつも起こらずにおりました。針仕事をしているねえやの姿が落ち着いておりました。乳母やも黒豆を煮たり、細々とした家事を片付けている後姿が安堵しておりました。わたしはといえば、そうしたことを深く考えたわけではございませんけれど、皆の安堵を、安心して穏かな空気を感じておりましたよ。こどもというのは、そういう雰囲気にはとても敏感なものでございます。

 ぼくは安心した暖かな空気にまもられて、移り変わる空を見ておりました。おもちゃで遊びながら振り仰ぐ空は、一層薄くなっていって、いつか透明になってしまうのではないかとぼく、考えていました。お空のいろが硝子みたいになってしまうのではないかしらっ、て。そうしたら、なにが向こうにみえるのかしら、と不思議なような期待しているような気持でいたものです。

 さて、そうして随分と穏かな日々が過ぎました。

 空が一層高くなっていく。

 しんと冷えた朝、ぼくはねえやたちが起こしてくれる前に目がさめました。ねえやは部屋の隅にのべた蒲団の上でよく寝ています。ぼく、そっと起きて外を見に参りました。

 ええ、期待したとおりです。

 寒いさむい空気も気にはなりませんでしたよ。

 白一色に、世界はかわっていたのでした。

眠っているあいだに、雪が降ったのです。ぼく、うれしくて硝子戸に張り付いて、腰板から少しでも外を覗けるように、精一杯背伸びして庭を見渡しました。

 きれいでしたねえ。

庭の木蓮も、薄く雪化粧しておりました。白い花のように枝に塊の雪が処々咲いております。

ええ、そうでございます。

木枯らしの季節に咲きます花というのは、こうしてつもる雪の咲かせる花でございました。大層美しゅうございますよ。雪は何もかもを白く染め尽くしてしまっておりました。うっとりとしてぼくが眺めておりますと、空は何処までも薄青く、擦り毛のような雲が白く染めて、風が何処までも高く舞い上がっていくのがみえるような心地がいたします。

白い垣根も、いつもと違う表情で、つばきも白く染められておりました。

ぼくは、うっとりとながめていて。ですから、最初はつばきの花なのだと思いましたよ。

ええ、つばきの花だとおもいました。

白い庭に、一点のあか。

赤い花が散ったのだと、思いました。

つばきの花だと。

しんと音の無い世界で、ぼくは白に散った赤を見つめていました。どうしても目を引きますものねえ。後ろに、ねえやのおきてきた気配がいたしました。戸の開く音がして、ぼくに呼びかける声がいたします。ぼっちゃま、と―――はずかしいですね。けど、当時はそう呼ばれておりましたのですから、仕方無いでしょう?

ぼく、返事をせずに、赤をみつめておりました。

ぼっちゃま、そんな格好ではお寒いでしょう、とねえやの話し掛ける声がいたします。上に羽織るものをかけてくださいますねえやの手を着物が肩にのせられたのを、ぼくは感じたのをおぼえております。

庭に散った赤は、一点ではございませんでした。

ねえやが息を呑んでわたしを抱え込みました。

抱え上げられました一瞬に、みえたのでございますねえ。

硝子戸の腰板が、ぼくの目からみえなくしていたのでした。

目に焼き付きましたのは、白に散る一面のあか。

赤が見事に、庭一面を染めておりました。

いつもこのおうちには、白い雪の花が咲きますから移るのでございますけれど。

このとき、赤い花がさいたのでございますね。

白に一面散る赤い花。

散る赤が、血であることはねえやの慌てて引きつった顔をみなくても、わかっていたのかもしれません。

血でございました。

この冬にぼくが居りましたおうちでは赤い花がさいたのでした。

ぼくは、ねえやに部屋の奥にと連れていかれました。

それから、―――――。


あら、いけない。

気がつきませんでした。随分と遅くなってしまいましたね。

今宵はこれまでにいたしましょう。

え、続きを話してとおっしゃるのですか?いけませんよ。もう遅うございます。

明日の晩、つづきはお話しましょうね。

はい、お約束いたしますよ。

ええ、それではおやすみなさいまし。

ゆっくりと、おやすみなさいましね。












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